「わからない」にはふたつの種類がある。
本でも音楽でも映画でも、「わからない」ものは多い。
わからない、というのはなかなかに多義的で、誤解を招きやすいことばだ。たとえば「キェルケゴールを読んでみたけど、ぜんぜんわからなかった」と言うとき、その「わからない」は「難解で理解できなかった」という意味になる。しかし一方「クッキングパパを読んでみたけど、ぜんぜんわからなかった」と言う場合、それは漫画としての難解さを嘆いているわけではなかろう。「なにがおもしろいのか理解できない」とか「どうして人気なのか理解できない」と、世間の評価に対して「わからない」と言っているのである(念のため断っておくと、ぼくは『クッキングパパ』大好きです)。
前者の「わからない」の場合、つまり難解さに頭がついていけていない場合は、「わかろう」とする姿勢が大切だ。もう少しやさしい入門書からチャレンジしてみるなり、現代思想史をざっとおさらいしてみるなり、あるいはメモを取りながら読み返すなり、いろいろしてみるといい。何年かかるか不明だが、いつか「わかる」日がくるのかもしれない。
一方、後者の「わからない」は、深追いしないほうがいい。
たとえば世間で人気の映画があったとする。観てみたけど、そのよさがさっぱりわからなかったとする。どうしてこの映画がそんなに支持されているのか、自分なりに考える。どういう人が、どういう理由で支持しているのか、懸命に考える。
そこで出てくる答えは、きわめて市場分析的な、つまりはマーケティング的な、評論もどきの思いつきにしかならないだろう。しかもどこか、観客を小馬鹿にしたような、ひとりびとりを「大衆」とくくって考えるような、発想になるだろう。そして残念なことに、その答えはまったくピント外れなもので終わるだろう。
それよりも大切なのは「わからない自分」を、わかろうとしてみることだ。みんなが大絶賛しているあの映画のよさが、おれにはよくわからない。なぜおれはあの映画を好きになれなかったんだろう。なにがおれの感動にブレーキをかけたのだろう。どうしておれはあの映画を途中下車してしまったのだろう。
そこからしか浮かび上がらない自分というのも、あると思うのだ。