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反省することについて、反省してること。

いろいろと、反省することってありますよね。

「あのときこんなふうにしておけばよかったなあ」とか、「あれは失敗だったなあ」とか、「もう少し真剣にやっておけばよかったなあ」とか。どれだけ順風満帆そうに見えるすごい人だって、なんでもかんでもうまくいってるはずはなくって、少なからず「あのときの自分」を反省する機会はあると思うんです。

それでたぶん、反省にはふたつの種類があります。

ひとつは「もっとがんばればよかった」という反省。いまにして思えば手を抜いていたとか、途中で力尽きたとか、面倒くさくて逃げちゃったとか、そういう自分の「がんばり」に関する反省です。やるべきことははっきりしていたのに、最後までそれをやりきれなかった、みたいな話ですね。これはとてもわかりやすいし、ぼくの場合は自覚もしやすい。原稿を書くたび、本が刊行されるたび、「もっとやれたはずだ」の反省に襲われます。おそらく、どこまでいってもついてまわる反省でしょう。

もうひとつあるのは、「選択を間違えた」という反省です。進学先を間違えただとか、就職先を間違えたみたいなものもあるでしょうし、あのクライアントさんと組んだのは間違いだったとか、あそこであの仕事を受けたのは間違いだったとか、あの人を信用したのは間違いだったみたいな、大小さまざまな「決断」に関する反省です。決断に至る過程において、長々とした熟慮はあるでしょう。しかし決断それ自体はほとんど一瞬のうちに下されるものでもあり、「やっちまったー!」の反省は多々あるものと思われます。これはたとえば、会食でのお店選びとか、日本酒を飲むかビールを飲むか、みたいなレベルの決断に至るまで。


それでね、「がんばり」についてはもう、いくらでも反省すればいいと思うんですよ。自分の至らなさというか、がんばりの不足をそのたび反省して、少しずつでも肝に銘じていけばいいと思うんです。おれにはそういう手抜かりがいつもある、だから今後は気をつけていこう、と。

一方で「決断」については、いくら「あんな選択をしたおれの馬鹿野郎」と反省しても、それは反省っていうよりも自分への叱責であり、ただの後悔ですよね。ぼくも過去の決断なり選択なりを反省する場面は多いのですが、ふつうに反省するだけだったら「まったくおれは馬鹿だよなあ」「馬鹿だから選択を間違えるんだよなあ」以外の答えが出てこない。これ、あんまり意味がないんです。

それで最近、大事な真実に気づきました。

決断の誤り、または選択のミス。それってじつは、ほとんどの場合が「相談の不在」に原因があるんです。しかるべき人に、しかるべき相談をすることなく、自分ひとりで決めてしまう。それだからこそ、失敗している。とくに相談が苦手な中高年男性には、その傾向が強いのではないでしょうか。ぼくは完全にそうです。

相談するのって勇気もいるし、いろんな前提条件から説明するのは面倒だったりもするし、迷っている自分を見せるのに抵抗を感じたりもしますよね。あるいは、いま自分が悩んでいる問題について、しかるべき相談相手がいないと感じることもあるかもしれない。

でもねー、いろんな心的抵抗を乗り越えてでも相談はするべきものだし、相談するのは弱さの表れでもないし、むしろ相談できないことのほうが自分の弱さなのだし、なんといっても相談相手はちゃんといてくれるものだと思うんですよ。それは恩師や上司や先輩にかぎらず、友だちや後輩、家族のなかにだって。「真剣に相談できる自分になる」は、今後のおおきい目標だなあと思っています。