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【文章編】 旅に出ているあいだ、みなさんからの質問にお答えします。

はじめての国に行くのは、わくわくするなあ。

今週はネパールへの取材旅行に出ているため、ネット環境に不安のありげな現地からの更新がかなわなかった場合にそなえ、事前に「質問箱」までお寄せいただいた質問にお答えしていく note を予約投稿しております。

「文章編」「プライベート編」「仕事編」「人生編」「その他いろいろ編」と続きますので、どうぞよろしく読んでやってください。

それではまず、文章編として分類させていただいた質問から。


文章にまつわる13の質問。


Q.1 文章が人に伝わりやすくなるように気をつけていることや意識していることはありますか?

A. よく「中学生が読んでもわかるように書きなさい」というアドバイスが語られますが、それはちょっと「バカにでもわかるように書きなさい」的な誤解がつきまとう話だと思うんですよね。そうじゃなく、ぼくは「まったく違った文化圏に育ったひとにも伝わるように」の視点で考えています。具体的には「サンタモニカの坂道でスケボーしてるお兄ちゃんが読んでも、ちゃんと伝わるか」とか。英訳の問題はいったん横に置いてね。


Q.2 古賀さんが本作りをする上で、また文章を書く上で影響を受けた座右の書を全て知りたいです。

A. 無意識の影響も多いので、ごめんなさい、ぜんぶ挙げるのは無理です。ストーリーとかキャラクター造形とかではなく、「ことば」の単位でびっくりさせられたのは、高校生のころに読んだ井上ひさしさんの『ブンとフン』ですかねえ。あとは、浅倉久志さん訳によるカート・ヴォネガットの一連の作品でしょうか。


Q.3 古賀さんは、自分の文章を読み返してつまらないと感じることはありますか? もしあるとすれば、具体的に何をして変化を加えていきますか?

A. 毎回、ぜんぶの原稿についてつまらないと思います。文章がおもしろくなくなるのって、「指の都合」に流されたときなんですよ。

自分の「こころ」が感じたなにかを、自分の「あたま」で整理して、自分の「指」でペンを走らせたり、キーボードを叩いたりする。それが書くという作業です。

このとき、指先レベルの手癖に流されたり、こころを伴わない慣用句でごまかしたり、つじつま合わせに走ったりしているうちに、そもそも「こころ」がなにを感じていたのか忘れてしまう。ある意味、「指」が自分の都合を優先して書いてしまっている。読み返した原稿がつまらないとき、最初に疑うべきはそこなんだと思います。

だから、「そもそもおれは、これのなにを『おもしろい!』と思って書きはじめたんだっけ?」と、何度も何度も問いなおす。「指先」で書いてしまった文章を、再び「こころ」に引き戻す。それしかないんじゃないかな。


Q.4 様々なご本の編集やインタビューをまとめられる過程で、その著者や話し手とご自身との間の距離をどのように取られておられますか? 近すぎても遠すぎても難しいように思うのですが、心掛けておられることはございますでしょうか。

A. ジャーナリストだったら一定の距離を保つべきなんでしょうけど、ぼくはライターなので、取材から執筆にかけては「そのひとの世界でいちばんの理解者」であろうと心がけます。聞き手としての「わたし」や「ぼく」という主体を消すことはしないけれども、たとえば批判的・批評的であろうとはぜんぜん思ってないですね。

ただ、そのひとが「うそ」をついているかどうかだけは、しっかり見極めているつもりです。うそをうそのまま書いて世に出すのは、結果としてそのひとにも不利益をもたらしますからね。


Q.5 note の中で、ご自分のことを、よくぐずぐず、怠惰など、「こんなヤツ的」な謙虚な表現をされていますが、こんな自分が、こんなこと言って良いのかな、という葛藤を持つときはありますか? あるとすれば、その時、どんな風に考えて、言う言わない、もしくは、書く書かないを決めていくのか、教えてください。

A. 自分ができないことについては、基本的に書かないですね。たとえば、ぼくはライターだけど小説家ではないので「おもしろい小説の書き方」みたいな話は、口が裂けてもできません。逆にいうと、自分が「できている」と思っていることについては、自信をもって語ってもいいんじゃないでしょうか。それは自慢じゃなく、事実なので。

謙虚を通り越した「卑屈」って、案外まわりの誰も得をしない態度なんですよね。


Q.6 文章の「勢い」についてはどう考えていますか?

A. リズムについて考えることはいろいろありますが、「勢い」というのはまた別の話なんですよね? すみません、よくわからないというか、あまり考えていないみたいです。

あ、ひとつ気をつけているのは「あおり」に傾きすぎないこと。読者をあおるような文章って、勢いがあって気持ちよく映るかもしれませんが、よほどの技術と自制心がないと恫喝と変わらない文章になるんですよね。


Q.7 ライターになるために、どうやって「ライターとしての書き方」を身につけましたか? なにか学校に通われたのでしょうか。

A. 学校とか講座とか、そういうものに通ったことはありません。よくも悪くも、この仕事のこと舐めていましたし。

それでも駆け出し時代、先輩や編集者からの指摘を受けるうちに気づいたのは、「おもしろくしようとするな」だった気がします。レシピどおりの料理もできないうちから、やたら隠し味を入れたがるようなところが、とくに若いうちのライターにはありますから。しかもそういうライターって、「それと気づいてもらえるような分量」の、隠し味を入れちゃうんですよ。だから味が崩れちゃう。つまり、カレーの隠し味にケチャップがあるとしたとき、若いライターさんはカレーが赤くなるまで、酸っぱくなったり甘くなったりするまで、ケチャップを入れちゃうんです。それはひとえに「気づいてほしいから」。

だから、まずはレシピどおりに料理をつくって、安定してその味を出せるようになって、そのうえでようやく自分なりのおもしろ成分を「それと気づかれない範囲で」入れていく。そんな自制心が大事なんだと思います。


Q.8 志望理由書など非常に重要な文章を書くとき、推敲をしすぎてしまい逆に文章が分かりにくくなってしまいます。細かいロジックを通そうとしすぎるからな気がするのですが、推敲との向き合い方について何かアドバイスがあれば教えてください。

A. 推敲の基本は、音読、異読、ペン読の3つです。これはとても大事なところなので、順番にお話ししますね。

まずは「音読」で、リズムや論理展開のまずいところを整える。目で読むのではなく、耳で読む。

続いて、ワープロソフト上で縦書き・横書きを変換して読んだり、明朝体だったフォントをゴシック体に変えて読んだり、スマホに転送して読んだり、とにかく出力のかたちを変えて読み返す。これが「異読」。こうやって見え方を物理的に変えると、それまで見落としていたミスをたくさん発見することができます。

それで最後に、赤ペン片手の「ペン読」で、表現レベルでことばをチェックする。一文字一文字を、拾うように読んでいく。

たぶん「細かいロジックを通そうとしすぎる」ために読みづらくなっているのは、Q.3 で答えた「指の都合」で書いちゃってる状態なんだと思います。指の都合(すでに書いちゃった文章)を優先して、つじつま合わせに奔走している状態。推敲って、バッサリ切ることも含めて推敲なので、「せっかく書いたのに」とか思わず、思いきってブロックごと削除するような勇気を持ちましょう。いちばん禁止したいことばは「せっかく書いたのに、もったいない」です。


Q.9 『ミライの授業』何度も読み返すくらい大好きな一冊です。『ミライの授業』を作る上で、特に大事にしていたことはなんですか?

A. どうもありがとうございます。『ミライの授業』は、ぼくも好きな本です。たくさんの偉人たちを紹介する本なので、「偉人であっても天才ではない」という点と、「なにかに夢中になることはたのしい。たとえそれが勉強であっても」という点は、とても意識していました。

あと、ああいう教養系の本って、なにも考えずに書くと「愚かなきみたちは知らないだろうけれど、世の中にはこんなにおもしろいひとがいて、こんなにおもしろい話があるんだよ」と、よけいな啓蒙色が出ちゃうんですよね。その落とし穴にはまらないよう、偉人伝ではなく冒険譚として読めるようにしようと思っていました。


Q.10 週日更新されていますが、どうしても書きたくない気分になったことはありますか? ネタがないとかじゃなくて、ふと書くことが虚しくなるような瞬間。noteに限らず、依頼された仕事なんかでも。 もしあるとしたら、どうやってそれを克服されているのか知りたいです。

A. もともとなんで書いてるんだっけ? と自分に問いかけるようにしています。たとえばこの note なんかは典型で、こんなの誰に頼まれて書きはじめたものでもなく、自分が書きたいと思ったり、書かなきゃと思ったから、はじめたものなんですよね。

ライターという仕事にしても、誰かに命令されて就いているわけではなく、多少の事情や不本意はあったにせよ、自分で望んでこの仕事を選んだ経緯がある。そうやって考えると、「書きたくないよー」な自分に対して「お前がやるって言ったんだろ!」とツッコミを入れることができます。


Q.11 ご自分が「書く人」だと気づいたのは、何歳ごろ、どんなきっかけからでしたか?

A. 小学校のとき、担任の先生が「卒業論文」という名の自由課題をクラスのみんなに与えたんですよ。まわりの友だちは江戸時代の歴代将軍を調べたり、植物の観察日記みたいなものをつくったり、なんだか土器の分類を調べたりとかしていたのですが、ぼくはなぜか小説を書いて。

そしてその小説の出来を気に入ってくれた先生が、午後の授業をつぶしてみんなの前で朗読させてくれました。物語としては『スターウォーズ ジェダイの復讐』と『猿の惑星』を足して2で割ったようなSFだったのですが、朗読を終えたあと、クラスのみんながスタンディングオベーションをしてくれたんですよね。たぶん、思わぬ拍手にどきどきしていたあのとき、書くことのたのしさをおぼえたのだと思います。


Q.12 古賀さんのnoteを拝見していると「どうしたらこんな文章が書けるのだろう」と、尊敬だけではなく、羨ましくも感じます。古賀さんは文章に長く携わっている大先輩ですから、ライター2年目の私がご質問するなどおこがましいこですが、いい文章を書くには何が大切だと思われますか? また、古賀さんが思ういい文章とは何でしょうか? いい文章を書くには日々書き続けることだと思い、書いています。でも、それだけでいいのかな…という思いもあります。よろしくお願いいたします。

A. ぼくの考える「いい文章」は、破綻がなく、読み手にストレスを与えることのないまま、伝えるべき情報を伝えきれている文章のこと。ここまでは才能に関係なく、意識と訓練次第で誰にでも書けるようになると、ぼくは思っています。その書き方をレクチャーする本も、できると思っています。

ただ、「いい文章」の先には「おもしろい文章」というものがあって、いまはそこの言語化と再現性の確立に苦しんでいるところです。


Q.13 もし、古賀さんが公営ギャンブルの競輪についての本を作られるとしたら、どのようなアプローチをされるかお聞かせいただきたいです。 僕は競輪という職業に大きな敬意を持っています。競輪選手がもっともっとスポットライトを浴びてほしいと思ってます。 競輪の魅力、競輪選手のガッツとかっこよさを職場の人に伝えたいです。 暑苦しいぐらい好きなことを伝える方法を教えて下さい。 よろしくお願いします。

A. うーん。たとえば、オリンピックの種目に「近代五種」って競技がありますよね? その五種がそれぞれなにを指しているのか知らなくても、名前くらいは聞いたことがあるんじゃないかと思います。

そういう「似たフィールド(この場合はスポーツ枠)でありながら、自分の意識から遠くにあるもの」をつかまえてきて、「おれが『近代五種』の魅力にめざめるとしたら、それはどんな本だろう?」と考えてみてください。

いまの「競輪サイコー!」の意識から抜け出さないかぎり、むずかしいんじゃないかと思います。