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書き続けることの意味。

わりと毎回、ぎりぎりなのである。

今年でもう8年だ。ぼくはここの note を、週日更新している。週日とはウィークデー、すなわち土日祝日以外の「平日」という意味だ。そしてきょうは金曜日。明日と明後日は書かなくていい。これだけ長く続けておきながらも、金曜日にはいつも思う。「明日は書かなくていいんだ」と。

よほどの事情がないかぎり、10年は続けてみようと思っている。そしてよほどの事情がないかぎり、10年だったら続けられると踏んでいる。仕事があほほど忙しいときでも、プライベートにおおきなトラブルがあったときでも、たぶんできる。

と言って、書くのがラクなわけではない。いつだって面倒くさいと思っているし、書きたくない日もたくさんある。それはきっと、10年・20年と続けたところで同じだろう。数をこなせば慣れるなんて、あるはずがない。

さらに言うと、こんなものを毎日書いたところで職業上の得があるわけじゃない。文章がうまくなるわけでもなく、ぼくという人間や、ぼくの会社の宣伝になるわけでも、たぶんない。

じゃあどうして書くのか。どうして仕事やプライベートの時間を削ってまで、こんな面倒を引き受けているのか。

かろうじて思い浮かぶメリットがあるとすれば、「考える時間」を得られることだ。ぼくはここの note でなんら大した話は書いていないけれども、いわゆるところの「作品」を書いてる意識なんて皆無だけれども、そんな文章でさえ、書こうとするには多少は考える必要がある。指が勝手に動いてキーボードをカタカタいい感じに押してくれるわけではないのだ。大したことがないなりに、なにか考えて書いているのだ。頭をこちらに切り替えて。そういう時間を一日のうちに持てていることは、なにかプラスに働いているのだろう。

本業のほうもまったく同じで、ラクに書けた本なんてこれまで一冊もない。書けば書くほどむつかしくなるくらいだ。けれど「ラクに書けたな」と思ったときには、書き手としての自分に黄色信号が灯っているのだろう。ちゃんと考えることを、やめてしまっているのだろう。「たのしく書けたな」は、いいことなんだけれど。