ツイッターは、電柱のおしっこである。
いよいよもって書くことが浮かばない日があるとするならば。
きょうはその代表的な1日と言えるだろう。もちろんきょうも、たくさんのことがあった。たくさんのひとに会い、たくさんのことを考え、たくさんの話をした。言語化可能なトピックは、いろいろある。なんなら出来事の数は普段よりも多いくらいだ。けれども書くことが浮かばない。
ブログに限らず、どんなタイプの文章にも、それが文章であるかぎり「読者」がいる。誰にも読ませるつもりのない鍵のかかった日記でも、「いつか読み返すかもしれない自分」という読者がいる。読者不在の文章なんて、存在しないと言ってもいいくらいだ。
ところが「いるはずの読者」を見失ってしまった文章は、世の中にたくさんあるし、ぼくもよく書く。ぼくの場合とくに、ツイッターでそのミスをやらかすことが多い気がする。
ツイッターでのぼくは、そのときどきで「読んでほしいあのひと」をそれぞれ思い浮かべながら、つぶやいている。読者が想定できてるじゃないか、いいじゃないか、と思われるかもしれないが、決してそうではない。
ツイッターのおもしろいひとたちを思い浮かべるとわかるはずだ。彼ら・彼女らは、なにも「ぼく」に向かっておもしろいことを書いているのではない。「ぼく以外の誰か」に向けているのとも少し違う。あえてことばにするなら「インターネットそのもの」に向かってつぶやいている。インターネットというしくみそのものに、そこに含まれる可能性に、「インターネットの向こう側」につぶやいている。そのさまはちょうど、犬が電柱におしっこをするようなものだ。犬たちは電柱におしっこをしながら、電柱の向こう側にいるだろう別の犬たちに向かって、なにかを伝えようとしている。お尻の匂いを嗅ぎあうような挨拶とは別のなにかを、置き手紙のように残していく。
ツイッターは、電柱のおしっこである。
つれづれなるままに書いてみたら、こんな結論になってしまいました。今度会うことになってるツイッターの達人たちに、いろいろ聞きたいなあ。