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考えるとは、どういうことか。

「考える」とは、どういうことか。

どういう行為のことを、「考える」と呼ぶのか。なにを守り、なにを禁止して、どこをめざしているのか。たとえば「思う」と「考える」とは、なにが違うのか。どこまでが「思う」で、どこから先を「考える」と呼ぶのか。こういう、考えてもしょうがない問いにつらつら思いをめぐらす行為もまた、「考える」ことのひとつだ。


「思う」との違いは、わりと簡単に言い当てられる。

その先になんらかの解を求めようとする思索のことを、ぼくは「考える」と呼ぶ。逆にいうと「思う」は、解を求めない。答えを必要としない場所で、ときに漫然と対象を味わっている。それが「思う」という行為だ。どちらがどうという話ではなく、身を置いている場所の違いでしかないだろう。当然ながら「思う」にも、立派な価値がある。


じゃあ、なんらかの答えを出せば、それで「考え」たといえるのか。

ここは少しばかり厄介なところで、性急に答えを出すことは、「考える」には程遠い。たとえば買いものをするときのぼくがそうなのだけど、じっくり「考える」ことが面倒なとき、つまり「答えが宙ぶらりんな状態」の気持ち悪さに我慢できなくなったとき、人は安直な解を求める。それは「考える」ことを放棄して、「決める」を選んだだけである。どんな問題も、いつかは決めなきゃ(決断しなきゃ)いけないのはそうなのだけど、だからといって「考える」ことを放棄するのは、あまり望ましくない。服を買うとき、本を買うとき、きょうのお昼になにを食べるか決めるとき、もっと「考える」ができる人に、ぼくはなりたい。


それでけっきょく、どこまで考えれば、ほんとうに考えたといえるのか。

仮に「10年間考えたこと」と「3日間考えたこと」があったとして、前者がよくて後者がわるい、といえるわけではないだろう。「考える」の価値は、そこに投じた時間で測られるものではない。けれども一方、量よりも質なんだ、とかっこよく言いきったときの「質」が、いったいなにを指すのか。これもきわめて曖昧である。

ものごとは、複雑に考えることも、シンプルに考えることもできる。複雑に導き出された解にも、シンプルに導き出された解にも、それぞれ個別の価値がある。そこを同じ秤で比較しようとするのは、小説と詩の優劣を比べるようなものだ。


考えるとは、「言い訳の余地を残さないこと」ではないか。

いま、ぼくはそんなふうに定義づけている。自分にそれほど立派な解が導き出せるとは思わない。間違っていることも多々あるだろうし、改める用意もある。ただ、少なくともいまの段階では「ここが自分の精いっぱい」というところまで、歩みを進めること。それが「考える」のめざす先ではないか。



ぼくは、「書く」ことを抜きにして、「考える」ことができない。

「書く」ことによってようやく、自分なりの「考える」がはじまる。こころの底から「書けた!」と思えたとき、そして気持ちよく筆を置くことができたとき、ぼくのなかに言い訳の余地は残っていない。


そういう「考える」を通過したものだけをぼくは、これから先の本で書いていきたいと思っている。そう、ここについてはただ、そう「思って」いる。