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「書ききる」ことのむずかしさ。

きのう、おめでたいニュースがふたつ飛び込んできた。

浅生鴨さんの『伴走者』が第35回織田作之助賞の最終候補に選ばれ、燃え殻さんの『ボクたちはみんな大人になれなかった』が第6回ブクログ大賞のフリー部門大賞に選ばれたのである。とてもうれしく、おめでたく、すごいことだ。シャイなおふたりは揃って自らを「受注体質」と呼び、発注があったから書いた、とおっしゃるのだけど、たとえば「富士山を50メートル右に動かしてくれたまえ」なんて発注があっても受けるはずはなく、つまりは「できる」と思ったから受注したのだし、積極的に「書きたい」と思ったからこそ書いたはずだ。

そうして書いた小説がいま、このように評価されている。これはいったい、どういうことか。

まず、彼らは「書こう」と決めた。そして実際に「書きはじめた」。さらにはいくつもの孤独な夜を乗り越えて「書ききった」。最期まで手を抜くことなく、言い訳の余地が残らないよう、サボらず必死に「書ききった」。そこから批判や嘲笑を覚悟で発表し、自分そのものと言ってもいい作品を世に問うた。その小説が支持されるとかされないとかは、ずっとあとの話である。

誰のどんな小説だってそういうプロセスを経て世に出るものだけれど、その素顔を知る人間のひとりとして、彼らが過ごしてきた時間に、あらためて拍手したくなる。小説を書こうと決めることも、書きはじめることもぼくにはむずかしいし、いわんやそれを最後まで「書ききる」なんて、ちょっと想像がつかない。なんらかの習作を試みたことのある人なら、「書ききる」ことのむずかしさは、よくわかるんじゃないかと思う。


鴨さん、燃え殻さん、まったく人間離れしたペンネームのおふたりだけど、ひとりの人間として、おふたりのこと尊敬しています。

ほんとうにおめでとうございました。