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書かないほうがいいとされていること。

■ 四年後のことを考える

早くも四年後のことを考えている。日本時間の今晩から、アメリカ合衆国の大統領選挙、その投票がはじまる。それなりに関連報道には触れているつもりだけれどトランプ氏とハリス氏、どちらが大統領になるのかまったくわからない。ただ現在のぼくは、四年後のことを考えている。前々回と前回、そして今回と、ぼくたちは三回も連続して「トランプの大統領選挙」もしくは「対トランプの大統領選挙」を見てきた。いろいろと感覚が麻痺してしまっているところがあると思う。はたして四年後、トランプ氏のいない大統領選挙はどんな姿になるのだろうか。試金石は、そこにある気がしている。


■ 書かないほうがいいとされていること

アメリカの話とはいえ、ぼくが政治の話題を書くことはめずらしい。けれども一方、ぼくの身近にいる人たちのうち幾人かは、ぼくが政治に無関心な人間ではなく、むしろ関心ありまくりな人間であることを知っているだろう。なんといっても小学一年生のクリスマス会で、大平正芳総理のモノマネを披露してクラスをドン引きさせた人間なのだ。

なのに政治の話をこういう場に書かないのは、自分なりのちいさな信念と、あとはまあ「面倒ごと」を避けたい心性があるからだ。

で、政治や宗教と並んで、というわけではないにせよ「書かないほうがいい」とされる話題がある。きょうはその話をしよう。


忙しい。

なんか知らんけど、やたらめったら忙しい。

ずっとずっと先に入れていたはずのお仕事が、いつの間にかぐんぐん目の前に差し迫っている。入念なスケジュール管理、分刻みの時間配分によってさばいていくしかないような状況に追いやられている。かといって「手を抜く」という選択肢はぼくの場合なく、つまりは忙しい。胃が痛い。

というように、人前で「忙しい」を連呼することを戒める人たちは、ひとつに「そんなの、おれは仕事ができないと自白しているようなものだ」と指摘する。たしかに、ぼくよりもたくさんの仕事を抱えている人はたくさんいるはずで、そうした人々のなかには涼しい顔でテキパキ片づける仕事の達人もいるのだろう。なるほど「忙しい」は、無能の告白である。

また「あまり忙しいって言いすぎると、だれからも誘われなくなるよ?」との意見も耳にする。これも言われてみればそのとおりで、ぼくにしても「忙しい」を連呼している人に向かって「来週、飲みに行かない?」なんて声はかけづらい。そしてだれからも声をかけてもらえないなか、じゃあしょうがない、ということであたらしい仕事を入れ、ますます自分を忙しくしてしまうスパイラルにぼくのような職業はハマりやすい。なるほど「忙しい」は、孤立の第一歩である。

しかし、それを承知しながら「忙しい」以外のことばが出てこない日というのはぼくにもあって、2024年11月5日はそういう日だったということだ。