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継続するのに必要なもの。

排骨担々麺、という食べものがある。

豚のバラ肉に小麦粉をまぶし、また多くの場合にはカレー粉などの香辛料もまぶし、油でからりと揚げた豚バラ肉の唐揚げを載せた担々麺である。溜池山王駅近くの赤坂店が有名な「はしご」、再開発のため残念ながら閉店してしまった渋谷の「亜寿加」、あるいは赤坂にある「希須林」のラーメン屋。いずれの店で食べてもおいしく、もしかしたらおれはあらゆるラーメンのなかで排骨担々麺がいちばん好きなのかもしれない、と思った時期があった。

しかし、排骨担々麺をことさら偏愛する人をぼくは、あまりお見かけしたおぼえがない。じゃあ、おれが先陣をきってやろう。都内の排骨担々麺を食べ尽くし、排骨担々麺の大家になってやろう。なんならその後、排骨担々麺への知識と愛情をたっぷり書き綴ったブログや本を出すなどして、排骨担々麺ブームを起こしてやろう。それはきっと、つまり「天ぷら以外の揚げものが載った麺のうまさ」を認知させることはきっと、ぼくがこよなく愛する「とんかつうどん」の普及にもつながっていくはずだ。

そんなふうに腕まくりし、週末のたびごとに都内にあるはじめての排骨担々麺を食べ歩く日々が続いた。飽き足らず、平日にもしょっちゅう渋谷の亜寿加に出かけ、きたるべき「排骨担々麺の大家」となる日に備え、おのれの舌を鍛えていった。


結果、1か月で飽きてしまった。

いまでも排骨担々麺は好きだし、メニューに見かければかならず注文するけれど、わざわざ電車を乗り継いで食べに行くかと言われれば、もうその情熱はない。それは排骨担々麺に魅力が足りないのではなく、ぼくという人間がただ、情けないほど飽きっぽいだけなのだ。

……という話を入口に、きのうから考えていたこと、きのうの夜になってようやくわかった答えを、ここに書く。


継続のコツ、についてだ。


きのう、ここの note が通算1000本を超えた。

飽きっぽいぼくの性格から考えて、これだけなにかが続けられることは、かなりめずらしい。そもそも、一冊の本を書いている途中でもう飽きはじめ、次の本を書きたくなるのがぼくという人間だ。これだけなにかを継続できたのは、はじめてのことかもしれない。それではなぜ、ここまで継続できたのか。今後も継続するだろうと思えているのか。


ひと言でいえば、ここを「雑な場」にしなかったからだ。

「なんでもいいからとりあえず書く」とはしなかった。書くことだけを目的にはしなかった。せっかく書くのなら、多少は考えてから書こうと、丁寧さを心がけた。もちろんそれが守れない日もあるけれど、全体としてはやはり丁寧であろうと心がけてきた。

その結果、ここが自分にとってなにかしらの価値がある場所に思え、投げ捨ててしまうことができなくなった。もしも雑に書き殴るだけの粗末な場にしていたら、たぶんぼくは飽ききって、この場を放棄することに躊躇しなくなっていただろう。

ぼくがツイッターやフェイスブックやインスタグラムにわかりやすく飽きているのは、たぶん「雑に書いている」からだ。あそこだって、もっと丁寧に書いていたら、おもしろいはずだし、もっともっと自分が宿った場になるのだろう。


仕事でも趣味でも恋愛でも人間関係でも、なんでも一緒だと思う。雑に扱ったそれは、かならず飽きる。丁寧に扱ったそれは、かならず育つ。ノルマ的な仕事がつまらないのは、それを雑にこなす自分がいるからでもある。雑でもこなせてしまう自分が、対象を飽きさせる。

このへん、もうちょっと考え続けていきたいテーマだ。