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忘れられない文章はピークエンドか初頭効果か

人間って、当たり前だけど物事のすべてを最初から最後まで記憶できない。どんなにいい文章を読んでも全文一言一句を鮮明には自分に残せない。

ときどき「ハイパーサイメシア(超記憶症候群)」と呼ばれる特殊(差別的意味合いではなく)な人もいるけれど、そうでない人のほうがほとんどだ。

僕もそうだけど日常的な物事だって、すごく大雑把に記憶している。そんなつもりはない気がするのは、特定の部分の記憶というより「印象」を強く持ってるからだろう。

もし、本当に毎日の出来事のログを脳が取っていて、すべて詳細に記憶できて再生可能な状態になったら、たぶんしんどい。脳の負荷がすごいことになるから、いい意味で適当な処理をしてるわけだ。

逆にそこから考えると、どんなに懇切丁寧に誰かに物事を伝えたいと思っても、相手がそれを一部始終すべて受け取ってくれるとは期待できない。せっかくこんなに一生懸命伝えたのに、と思っても相手の記憶に残ってるのは「ごく一部」。基本的にはみんなそういう仕様なのだ。

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その「ごく一部」の記憶に紐づいた印象が「快い」か「不快」かで、他にどんなにいい部分があっても、トータルではそこに持っていかれてしまう。

いい話が随所にあったのに、一部の「不快な感情を呼び起こすフレーズ」があったことで、「ひどい話」「ひどい人間」と思われてしまったりもする。

だからマーケティングやUX的な世界では、どの部分に感情のピークが来るようにするかを「設計」して、相手にいい印象を持ってもらえるように考えるのだ。

この考え方には大きく2パターンある。どっちも新しい話ではないので知ってる人も少なくないと思うけど。


行動経済学者のダニエル・カーネマンが明らかにした「ピーク・エンドの法則 (Peak End Rule)=ある経験に対し感情のピークと、その経験の終わりの部分によって経験全体が判断される」がひとつ。

あるいはもう少し古典的な「初頭効果」だ。初頭効果はそのまんまで、同じ内容を伝える場合でも、ポジティブなことを最初に伝えてネガティブなことは後ろに持ってくるほうが、トータルではポジティブな印象になるというもの。

たとえば、「ある料理の写真」と、その料理の味を表す形容詞を2つのグループに見せた場合。

Aグループには
味わい深い・庶民的・伝統的・刺激的・ヒリヒリする・臭い
Bグループには
臭い・ヒリヒリする・刺激的・伝統的・庶民的・味わい深い

という順番で伝えると、Aグループはその料理の味に「好意的」なイメージを抱きやすいに対し、Bグループは「否定的」なイメージを抱きやすいのだ。

同じことを伝えているのに、最初に何を言うかでトータルの印象がまるで違ってしまう。

まあ、情緒的要素の入った文章を書くときも同じで、だから「ピークエンド」的に、いちばんの感情のピークを「不快」と「快い」のどっちに振るか。あるいは「初頭効果」的に、文章の「書きだし」でどうつかむかで、その文章で何が相手に残るが決まる。

結局、忘れられない誰か、忘れられない文章も「そのすべて」なんてことはなく、その人や文章の「ごく一部」なんだということ。

いまさらな話なんだけど、つい忘れてしまいそうになるので備忘録的に書いてみました。