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つまみ食いの人生

ずっと原稿とばかり向き合ってると、ときどきダウナーがふわっと被さってくることがある。ほんと、不意にだけど。

べつに仕事が進まないとか、書く気が起きないとかではなく。いや、なんなら原稿は順調に進んでたりする。体力的にはそこそこ消耗はしてるけどそこは問題じゃない。

原稿がちゃんと進んでいて、仕事としても問題ないレベルをクリアしている。傍目には何も問題なさそうな状態。なのに、なんでだろうと自分でも思う。

たぶん、あれだ。手触り感を失ってるのだ。

手触り感って何なのか。自分の手がちゃんと「言葉」の一つひとつを感じ取れてること。

熱い、冷たい、鋭い、柔らかい、まぶしい、沈んだ感じ、平面的、立体的、饒舌、寡黙、鼻に抜ける、鼻腔にとどまる。

人間には基本的な五感があるけど、それを「言葉」「文字」を扱いながらちゃんと感じられると「あ、手触り感あるな」と思う。僕の場合は。

そこがいつの間にか失われると、どれだけ原稿が進んでいて仕事が完成されても、反比例するようにダウナーがやって来るのだ。

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どんな分野であれ、手触り感を忘れず何かをつくりあげる作家さんたち、すごいなといつも思う。

比べる必要もないし、比べられないものなんだけど、自分は何をやってるんだろうと考えてしまう。

木でも土でも布、革でも、材と向き合い、自分の身を削り、材の中に自分の生き方をこね合わせるようにして作品をかたちにしていく。

そこでは、さまざまな技法、技術を用いるのだけど、技法や技術を使うためにやってるのではなく、まるでその作業や工程がひとつの生態系のプロセスであるかのように自然であることにいつも「ああ」と思う。

若干、何言ってるのかわからない。上手く言えないんだけど、命を生み出すなんて表現を簡単に使いたくないんだけど、それでもそう言いたくなる。

なんていうか、作品という命を生むために自分の命を投じてるのだ。なのに、そんなこと忘れたかのように、作品の前では「重たさ」を微塵も感じさせないで笑ってる。

自分の人生をちゃんと食べてる人たち。その存在感と気持ちの良さ。

一方で自分はどうなんだろう。

さくさくと仕事して、いま目の前のことだけ見て集中していると言えば聞こえはいいけれど、向き合ってるものが単なるタスクだったとしたら、自分の人生をちゃんと食べてるとは言えない。つまみ食いだ。

つまみ食いが多い人生って、きっと満たされても満たされないね。