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いまの子は盗んだバイクで走り出さないから

マネジメント層やリーダーの取材をしていると「いまの子たちがわからない」話がよく出てくる。そんなのいまに始まったものでもなんでもないんだけど、それでもやっぱり出てくる。

そもそも若者と年長者、そこまで違わなくても同じ時間軸を共有していないパイセンや後輩と話や価値観がたまにズレるのはどうしようもない。そういうものだ。

なのだけど、なぜかいまの上の世代が「いまの子がわからない」というときに、どこか深刻な感じがするのはなぜなんだろう。

ここをちゃんと分析し始めると、いろんな要素をぶちこまないといけなくなるのであれだけど、たぶん本当に「どうしていいかわからない」事案が多々発生しているのだろう。

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その昔も「いまの子はわからない」現象はあったけれど、それはお互いのベクトルの違いが主だった。年長者が「これはこうするべきだ」「ワシらのときはこうだった」というベクトルを示しても、若いほうは「自分はこうします」「いまはこうです」という異なるベクトルを示す。

そこで当然いろんな「そうじゃないだろう」がお互いに生じるけれど、ベクトルは違っているだけで一応物事は動いている。向きと大きさは異なっても、何らかの「量」は持っているから、どこかでなんとかすれば仕事が成り立ったわけである。

つまり、ある程度の幅から逸脱してなければ「やりたいようにやらせる」で済んだのだ。どうしても「これあかんやつ」みたいなことが生じれば、年長者の経験値が使えるのでそこでうまく修正すれば済んでしまう。

ところが2018年のいま、頻繁に見聞きするのは絶望的に「どう理解していいかわからない」「コミュニケーションができない」という類のギャップだ。それも、上の世代、若い世代双方がお互いをそう言っている。

そうした断絶エピソードはネット上にいくらでもあふれてるので、採りあげるまでもないけれど、これはどうしたものなんだろう。

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「何も言わないし、わかってる感じで接してるから大丈夫かなと思ったら、まったくやってなかったり。まだ、面と向かって反発してくれたほうがいいんです」と年長者は言う。ぶつかっても、そこで何らかのコミュニケーションが生まれるからだ。

だけど、いまの子たちはそんなわかりやすい反発も反抗もしない。盗んだバイクで走り出さないのだ。

もし、そんなことをしそうになったら「やめなよ」。周りや空気がやんわり言う。わかりやすい反発とか反抗をしない代わり、うまくかわす。スルーしたり、ときには状況に合わせて、上の人間に思ってもないことでも言えたり、表面的にはうまく流したりできる。

こうしとけば相手喜ぶんだろを動物的に知ってるし学習してるからだ。それを真に受けると変なことになる。

なんだよこいつクソだなと思ってても、そうではない感じに変換できるからすごい。その場を壊したりなんかしない。社交辞令をもはや超えたあの現象に名前つけたい。

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「面倒くさいんですよ、上の人たち。自分の意見を言えって言ったり、言ったらいいからとにかくやれって言ったり意味がわからない」と若い世代は言う。
彼らの本音は「できれば関わりたくない」だ。

で、思うのは、若い世代側に上の人間を理解しろと求めるのは無理だし、生物的に違うだろということ。そこは長く生きてるほうが少しでも(全部は難しいから)理解しないと。

根本的にいまの子は「最新モデル」だというのが理解の前提。そう、上の人たちには理解できない機能がいろいろ付いてる。わからなくて当然なのだ。だからって「じゃあ、俺らも最新モデル使えるようにするべ」と身を乗り出すのも違う。

上の人たちがいまの子たちと同じものを使いこなし、同じ文化を取り入れてコミュニケーションしようとしても、彼らからすれば「この人たちなにやってるんだろ」「旧モデルを無理無理最新のやつにしようとしてる」にしか見えないからだ。

もちろん最新モデルがすべてに優れているわけでもないけれど、とりあえず「最新」という事実に違いはない。まず、そこを認めることなんだろうな。

最新モデルのいまの子たち。ただ、昔と違っているのは、最新モデルが次のモデルの登場で劇的に古くなることがなく(破壊的イノベーションはそんなには起こらない)最新モデルは常にアップデートし続ける機能も持ってるのだ。オンプレじゃなくクラウドだから。

そうなると、永遠に「今の子たちがわからない」が続くのかもしれないけど。