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小説に「はじめに」と「目次」があったら

ビジネス書とか実用書、あるいはノンフィクションと呼ばれるジャンルの本には、たいてい「はじめに」「目次」が書かれてる。

「はじめに」は「まえがき」とか「プロローグ」と称されることもあるけど役割としては同じだ。目次の役割は言うまでもない。

「はじめに」や「まえがき」は人によっては読み飛ばす人もいるかもしれない。

なんていうか本の中で語られる内容の「導入」というか「前振り」みたいなものだから、べつに絶対そこを読まなければ本文の内容が理解できないわけでもない。

すごく稀に「はじめに」で伏線を張って本文で回収するパターンもあるけど、まあそれでもミステリーを読むわけじゃないから、読み飛ばしても何とかなる。

「はじめに」や「まえがき」では具体的に「何」が書かれてて、本全体の中でどう機能する構造になってるかの話もあるけど、そこはそんなに興味ある人少ないと思うのですっ飛ばします。そういうのは需要あればサークルで書けばいいし。

で、ふと思ったのだけど小説には「はじめに」ってないよなぁということ。

もちろん、中には「はじめに」や「プロローグ」っぽい書き出しではじまる小説もあるし、短編集とかアンソロジーの場合は本編とは別の体裁で「文庫本のためのまえがき」みたいなのもあるけど。

村上春樹さんの初期作品(いわゆる「僕」と「鼠」三部作)なんかは、小説内の「僕」が読者に語る体で「これは~という話だ」という物語のはじまり方をしている。

これも村上春樹世界を語るときに欠かせない「二重構造」の一部だと思うのだけど、それを話しはじめると大変なので。

なんで、こんなこと書いてるのか。

ビジネス書とか実用書、ノンフィクションなんかは「はじめに」「目次」で、本の中身の手掛かりが得られるというか、そこでフックを得て、全然知らない著者やジャンルの本でも入っていくことができるけど、小説は基本、そういう機能がない。

本のタイトル、著者、個別の作品タイトル。それだけを手掛かりにして、もういきなりその話を「読む」「読まない」の決断が迫られる。

それって、もしかしたら小説とか物語を読むハードルを上げてるんじゃない? という仮説も立てられるからだ。

そんなの小説なのに、本の中身「この物語の本当のテーマは~」「なぜこの話を書こうと思ったのか、それは~」「こういう出来事だが、そこには3人の核心につながる関係者がいて」みたいに最初に書かれたら、やっぱり萎える人もいそうだけど。

でも、実際に「純文学」的なもので「はじめに」とか「目次」があったらどうなんだろう。読みたくなるのか、逆に読む気がそがれるのか。

と思ったら、あの夏目漱石先生は『吾輩は猫である』が、はじめて書籍化(1905年~1907年にかけて上・中・下の3巻に分けて発刊)されたときに、

『吾輩は猫である』上篇自序 中篇自序 下篇自序 として、それぞれ現代でいうところの「はじめに」を書いてるのだ。なんていうか逆に新しい。純文学の文豪が自分の作品にこんなことまで「はじめに」で書かれている。

「吾輩は猫である」は雑誌ホトトギスに連載した続き物である。固より纏った話の筋を読ませる普通の小説ではないから、どこで切って一冊としても興味の上に於て左したる影響のあろう筈がない。然し自分の考ではもう少し書いた上でと思って居たが、書肆が頻りに催促をするのと、多忙で意の如く稿を続ぐ余暇がないので、差し当り是丈を出版する事にした。
                              上篇自序
「猫」の下巻を活字に植えて見たら頁が足りないから、もう少し書き足してくれと云う。書肆は「猫」を以て伸縮自在と心得て居るらしい。いくら猫でも一旦甕へ落ちて往生した以上は、そう安っぽく復活が出来る訳のものではない。頁が足らんからと云うて、おいそれと甕から這い上る様では猫の沽券にも関わる事だから是丈は御免蒙ることに致した。
                              下篇自序


どれも「書肆」、つまり出版社に対する文句みたいになってるのが興味深い。

まあ、これも元もとは有名な文芸誌だった『ホトトギス』に連載されたときから人気で、それがあらためて書籍化されたときの「自序」だからという文脈なので、純粋な「はじめに」ではないのかもしれない。

けど、当時の人はそういうのも含めて楽しんでたんだろうか。