共感性が低いのかもしれない
いろんな人がいろんなことに怒ってる。
直接その怒りをリアルに目撃することもあれば、SNSやCNSなんかで怒りに触れることもある。
後者の怒りは「見られる前提の怒り」というか「怒りを表現する」が入ってるのもあるから、ちょっと成分が違うのかもしれないけど。
まあでも、沸点の低いのから高いのまで世の中はわりと怒りに溢れてる。
そのことに対して、とくに否定的な気持ちも肯定的な気持ちもない。そうなんだなぁと思う。
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みたいなことを言うと
「怒ることってないんですか?」
「なんでわかってくれないんですか?」
という反応をされることがあって。
いや、そりゃ同じ人間だから僕も瞬間的に「まじか」「それはないだろ」と思うことはある。あるのだけど、それが「怒り」かというと、そこまでではないというか。
一応、いろんな人の話を聞かせてもらって文章を書く人間なので、その人が何かに怒ってたりするのは「わかる」。
わかるのだけど、じゃあ自分も同じ気持ちになって何か感情が増幅されて怒りが沸くかというとそれはあまりない。嘘です。あまりどころかほぼゼロに近い。
そういう意味では怒りの共感性は限りなく低いのかもしれない。
怒りに限らないのかもしれないけど、いろんな種類の感情が「わかる」ことは文章を書く人間にとっては大事。
でも「共感」は、それが書くことをブーストさせてくれることもあれば、間違った方向に突っ走ったり、本質を見失ってただすぐ燃えて尽きてしまうものを、生んでしまう場合もあるから。
エコーチェンバーなところでものを書いてもあまり意味がない。瞬間的に需要はあるのかもしれないけど。
怒りへの共感も人間のある種大切な感情のひとつなのかもしれない。
だけど、個人的には「その前後」にあるもののほうが大切だと思ってる。何かを書いて生きるのであれば。
こんなふうに言うぐらいだから、やっぱり「共感性」低いんだなって自覚はある。「一緒に怒ってください」とか、やっぱり無理なんだよなぁ。