ぶらさがり猫
忘れられない猫がいる。自分が飼っていた猫とは別の意味で、なぜかふと思い出してしまう。
まあ、向こうは僕のことなんて覚えてもいないのだろうけど。
暑すぎる夏だった。誰かが炎天下をフライパンで炒め続けてるんじゃないかと思うぐらい、じりじりと太陽が街を焦がしていく。
どこにも逃げ場がない道を、少しでも日陰を選びながら駅まで向かっていた。バス通りは日影がないのがわかっていたので、あまり通らない神社の横道を抜けて歩く。
樹々が茂っているだけでも、少しは涼しい。あまり通らない道をよそ見しながら進んでいくと枇杷の木が目についた。
枇杷って野生で生えるものなのか、それとも誰かが植えたのか。どっちにしても枇杷は僕にとって食べものではないので、そんなに興味はない。
気を惹かれたのは、枇杷の木に白っぽいくすんだ塊がくっついていることだ。
***
塊が世界中の物音を吸い取っているかのように、辺りの物音がしない。つい、僕も息を潜める。
白っぽくくすんだ塊は、気配を消したまま静かに何かににじり寄ろうとしている。猫だ。野良猫特有の何かと戦いながら生きている感じが、くすんだ毛並みに出ている。
猫の視線の先にはセミ。突然、ドラムロールのようなセミの鳴き声が僕らに降り注ぐ。猫は相変わらずネコ科特有の捕食体勢のままじっと動かない。
なぜ僕まで息を殺さなければならないのかよくわからないけれど、自然と僕もそうなる。次の瞬間、飛び出した猫の前足が素早く小さな弧を描く。
沸き立つ空に小石を飛ばしたようにキリトリ線を残してセミは飛び立つ。
呆然とする僕。枝にぶらさがったままの猫。猫は明らかに「しまった」の顔をしている。僕は何も言わずにその場を立ち去る。
しばらく歩いて振り返ると猫は、まだあのままの姿勢で「しまった」の顔。
あれから、僕は猫の姿を見ていない。すっかり自信をなくして町を出て行ったのかもしれない。首に小さな風呂敷包みを巻いて。
それでも猫は、町を出るときもう一度あの枇杷の木を見上げていったような気がして仕方ない。