読む人が足りない問題にnoteで見つけた答え
読み手が足りない。最近、よく聞く。書き手はものすごく増えたけれど(noteもそうなんだけどね)読み手が圧倒的に不足してるのだ。
え、読んでるよという人もいると思う。そう、みんな読んでる。だけど、ちょっと思い返してみてほしい。あなたは本当に読んでるだろうか。
書かれたテキストを追って、文字情報を視覚野から言語野に渡し、そこで過去の自分のデータベースを参照して文脈を理解しというのもたしかに「読む」なのだけど、それだけじゃないんだ。
良き読み手はただ読むだけじゃなく、書き手と一緒に旅をする。その時間を生きる。その旅は、順風満帆とは限らない。どうしようもない旅の方が多いと思う。出会いたくない出会い。別れたくない別れ。
読みながら書き手と世界を一緒に感じ、そこに流れる空気を呼吸し、痛みや切なさや哀しみやおかしみも共有する。誤解を承知で言えば、その「読む」は、もうテキストを離れて人生の一部に食い込んできている。
だから、ときに「読む」は苦しい。文章的、あるいは構造的欠陥のために読むのが苦痛というのではもちろんない。
書かれていることを想像してとかでもなく、書かれていることが自分の一部になってしまうから感情が動かされ、自分の生きる何かに反応して苦しさを感じるのだ。
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文章は本来それ自体、すごく孤独だ。読む人がいなければ、石版に刻まれて砂の中に埋れてしまう。
読む人が誰も通り掛らなくなれば、文章はすぐに砂漠化する。
良き読み手とは、書き手と一緒に旅をしてくれる存在。もちろんずっと一緒ではない。読む旅が終われば別れる。けれど、読み手の誰かと旅することができた書き手は、また次の場所に向かうことができる。
孤独なまま書く旅を続けることは、本当にごく限られた孤高の人でもない限り難しいから。
そんな危機感(ではないかもしれないけど)からか、最近、書き手に伴走して「読む旅」をするよというnoteの人も少しずつだけど増えてきた。
仲さんの #あなたのnote読みます もそうだ。良き読み手の力は、本当に書き手に新しい風景を見せてくれる。そしてその風景を見た書き手が、また新しい世界を描き、その旅に誘われる読み手が現れるという循環。
嶋津さんの「教養のエチュード賞」は、まさに「良き書き手でありたいなら、良き読み手であること」をみんなに教えてくれた。
こうした一連のnoteの人たちの個人企画から、新たに「読むプロ」が出てきそうだし、出てきてほしい。
本当ならというか、昔の良き時代は編集者がその「ちゃんと読む」役割を担っていた。もちろんプロとして。
だけど現代の編集者は、いろんな意味で「読まない編集者」が増えた。
自分がまず良き読み手としてちゃんと有名無名に関わらず、テキストに向き合い、孤独に書く旅をしている書き手の静かな息づかいに気づき、一緒に旅をする。そんな編集者が減った。
とりあえず「売れるバックグラウンドを持ってる書き手」「初速が出せて最初から数字が見える書き手」を探すことが求められる。
編集を取り巻く環境の変化。限られた時間の中で「売れる本、数字の取れる記事」を量産し続けなければならない制約。そこに紐づいた評価。いろんな因子があるから一概には言えないのだけど。
でも、悲観ばかりでもない。
仲さんや嶋津さんのように、noteという世界で、みんなで旅をするタイプの新しい編集者と良き読み手のかたちを具現化する人が出て来ているのだから。
僕も一応、読むと書くの世界で生きているひとりとして、まだ見ぬ誰かの旅を伴走したいと考えている。近いうちにね。
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★2020.2.8追記
◎「これからのライター」に伴走するnoteサークルはじめました。