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書くために、書かない時間

最近、僕は文章を書かない。いや、書いてるんだけど書かない。また、なんかおかしなこと言ってるけど。

このnoteもそうだけど、人は文章を書く。

なにか伝えたいこと、言葉にしたいこと、そんなんじゃなくてとにかく読まれたくて書きたい人もいる。じゃなきゃ、こんなに世の中に文章が溢れてこない。

それは、べつ悪いことじゃない。

昔みたいに、文章を書いてリリースするのが限られた人たちだけなんてつまらないから。

ただ、こうやって文章がタプタプに満たされるからこそ、文章を書くときに「書かない」ことも大切になってくる。

文章を書くときに書かないってどういうことなんだろうか。書くのに書かない。

これは決して言葉遊びではなく、僕もわりと意識してやってる。文章を寝かせるというのとも違う。書く前の話。

簡単に言うと「文章は書かない時間に生まれ、書かない時間に耕される」作用というか機能がある。

いやいや、自分は書きながら文章生まれてますけどという人もいると思う。それはある。あるのだけど、文章のテキストになってない根っこ、文章が育つ土の中は文章以前の「時間」に育まれてるってところ。

ここは案外、文章の書き手が忘れがちなところかもしれない。

じゃあ、文章を書かない時間にどんなことが起こってるのか。ここも真面目に書きはじめると本一冊書けるぐらい壮大なことになってしまうので、ほんの一部だけを取り出してみる。

どうしたって人は(どんなにマルチタスクな人でも)書くときは「書く」に集中するベクトルになる。文章を真剣に書きながらスマホの癒し猫さまを追えないし、伊予柑大福だってちゃんと味わえない。

だから「書かない時間」のほうが「書く」ための時間が持てる。

書かないのだけど書いてる。うまく伝わらないのだけど、そういう時間。真剣に自分の「書く」を掘って耕す時間。

そう、書く前に自分を耕してる。いきなり、カッチカチの土に文章の種を蒔いたって、なかなか育たない。仮に育ったって、どこかで萎えたり枯れたりして「残るもの」にはならない。

この耕すというか、土の中をいい状態にするというか。そこでは、いきなり書き出さないで「待つ」勇気もいる。

で、いい状態になったら「あ、書けるな」と思う。理屈じゃなく自分でそう感じる。頭でどうこう考えるのではなくて。

頭で考えて書くのも要素としてはあるのだけど、そっちは主に論理的な文章が求められる分野というか、文書作成的な世界。

たぶん、いまこれを読んでる人がいるとすれば、書くのはそういうものじゃないと思うから。

書かない時間がないと、つい「反応」と「頭だけ」で書いてしまいそうになる。
どこかで腑に落ちてないのに書いてしまう。

逆に言えば、反応と頭だけで書くのなら書かない時間がなくても書ける。

ただ、そういう文章はその場では「掴んでる」つもりでも、いつの間にか自分だけでなく読んだはずの人の中からも消えてしまう。まるでシャボン玉のように。

それを続けてると、なんだか自分すら消えてしまいそうになる。

自分も文章も「ちゃんと残る」ように書きたいなら、書かない時間って大切という話。