イメージからの逃亡
人と会うとき。知らず知らずに「こんな人」なんだろうなのイメージを持ちそうになる。
断定的でないのは、その前提を「自分もそうかもしれない」と認識したうえでなるべくそうならないようにしてるからだ。
取材ではじめての人に会う。事前に資料を調べて読み込んだりすると、どうしたって何かしらのイメージというか、その人の像みたいなものが目の前に浮かんできてしまう。まだ会ってもいないのに。AR=拡張現実だ。
このイメージ、人物像は3つの点でおかしい。
本人が言った、書いた(とされる)ことでも、それはあくまで何かの目的(取材を受けるとか、プロモーションとか)のために発信されたものだから、そこには対外的なバイアスが掛かっていてもおかしくない。これが1つ。
2つ目は、そこにさらに第三者(マネージャーや編集者だとかディレクターだとか)の思惑や目線が入っていること。公開情報であれば当然。そうなると微妙なニュアンスで本人の想いやベクトルとはズレることもある。
そして3つ目。そもそも本人でさえ、自分はどんな人間だということをよくわからないことが多い。僕だってそうだ。何かすごく一貫してるものを持っていながら、同時に矛盾したものも抱えてたり。
それなのに、避けられないバイアスが掛かった情報と、そこにさらに編集も入って、本人でさえよくわからない「こんな人」像を事前に思い浮かべたところで、それってほんと実体がないのだ。
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実際に会って話してみると、ほとんどの場合「こんな人」のイメージはなんだったんだぐらいに消え去る。べたに言えば「思った以上に~」「思ってたより~だった」みたいなことが多発する。
だけど、よく考えたらそれって変だよなと思う。勝手に思って、勝手に思った以上とか思ってたのと違ってたとかいうのだ。
事前イメージが役に立つ場合もないこともないので全否定するものでもないのだけど、できれば会う前も会ったときも、会ってからもフラットにその人と向き合いたい。
難しいのは自分でもわかってるんだけど、そのほうがイメージに左右されずに「そのまま」を受け取れるから。
事前イメージが固まりすぎると、取材でもそうだけど、せっかく生身の人間が目の前にいるのにイメージの確認みたいなところの浅いやりとりになってしまう。それではお互いにもったいない。
と自戒しつつ、まあ毎回が修業なんだよなぁ。