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スキを押せないnote

noteのスキが押せなくなった。そうか。まあ仕方ない。そういうこともある。で、ふと思った。

スキが押せなくなったnoteの世界とは、どういうものなんだろうかと。

「スキ」が物理的というかUX的に押せなくなったからといって、読んだ記事の価値は変わらないんじゃないか。それをまず思った。

あれだ。小林秀雄先生の至言

美しい花がある。花の美しさというものはない

にも通じるかもしれない。スキなnoteがある。noteのスキというものはない。ちょっと違う気もするけど。

スキが押せなくても誰かが書いたnoteの価値は変わらずそこにあるし、自分が読んだ価値も何も変わらない。それなら何も問題ないんじゃないか。

そうなると「スキ」ボタンのCTA(行動喚起)デザインとは何なのか問題が残る。

基本的にnoteの設計思想はシンプル(なはず)で、誰もがあらゆる創作(これも本来は広い意味で)を始めて続けられるようにするためのプラットフォームだった。

「スキ」があってもなくても創作物や創作につながる世界の価値は変わらない。だけど、「スキ」があることでユーザー同士のエンゲージメント(つながりの強さ)を醸成することもできる。

これも、ふしぎっちゃふしぎだけど「スキ」を媒介として他者とのエンゲージメントが強まるほど、自分がつくりたい世界も強化されていく。

noteの書く界隈で最近よく言われる「良質な読み手の存在が良質な書き手を育てる」というやつだ。

どうやら人間は「自分の世界」をつくるために他者を必要としているらしい。

自分の世界なんだから他者は関係なさそうな気もするけど、そうではなく他者の存在、あるいは他社との相互作用によって「自分」がつくられていく。

そこだけ切り取ると、じゃあ結局、自分っていう存在は他者に常に左右されてるんだってなるかもしれないけどそれは半分正解で半分間違ってる。

自分のアイデンティティをつくるためにも他者は必要なのだ。

何に「スキ」を押すか、自分が誰のnoteを読んで相互作用が生じるかを知ることは、単純に「スキ」以上の意味を持つ。

くり返すけど、べつに「スキ」を押さなくても読む行為は完了できるし、noteの価値も変わらないし、猫様がスリスリしてくるわけでもない。

心理学、あるいは社会心理学的に見れば「スキ」はひとつの自己開示にもなる。人が自己開示を行うのは(べつに行わなくてもいいのに)そこに「機能」が働いているからだ。

自己開示が持つ機能

(1)感情表出
(2)自己明確化
(3)社会的妥当化
(4)報酬機能
(5)社会的コントロール
(6)親密度・プライバシーの調整

出典:安藤清志(1986)対人関係における自己開示の機能

この中でもnoteの「スキ」は「社会的妥当化」「報酬機能」「社会的コントロール」に大きく影響してるんじゃないか。

社会的妥当化とは、自分の考えや行為、アウトプット(noteで何か書く、伝える)について他者からのフィードバックをもらうことで、その妥当性、つまり「それでいいんだ」「それがいいんだ」を確認する作業。

それは自分が「スキ」を押してもらう、自分が誰かに押すの両方で発生する。スキをもらった側はそれ自体が報酬でもあるし、スキを贈られた相手に対して好意的に認知することもできる。

そのうちスキをもらった相手に自分もスキを返すこともある。よく言われる「返報性」だ。この返報性に関してはいろんな仮説があって意外に単純ではないのだけどまあ、マクロで見れば。

で、社会的コントロールの機能もそれなりにある。これは自分が何らかの目的性のもとに「意図的」にスキを押す、あるいは押さないこと。これもいろんなパターンがある。長くなるので端折るけど。

要は自分が何にスキを押す押さない、押してもらう押してもらわないによって自分にとって好ましい状態をつくる。他者という社会を「スキ」を使ってコントロールするわけだ。

究極的には、お互いに違っていて、でもお互いをリスペクトできる。私もあなたも大事なものである。そのことを認められるときに、なんとも言えない深い満足みたいなのがあるんだろう。そのための「スキ」なんだ。

たぶん、noteの「スキ」はみんなが思ってる以上に、いろんな働きを内包している。スキの数の問題だけじゃない。スキがなくなったnoteの世界は、たぶんいろんなものが物足りない。

まるで禍の世界の街で見えない膜に閉じ込められたみたいに静かすぎるのだ。

そういうのも、いつもの日常ではなくなって初めて気づくもののひとつなのかもしれない。


※noteのブラウザで「スキ」が押せない、押しても反映されない現象は現在解消されてます(たぶん)。