浅生鴨さんに会ってきたかも(予告編)
大事なことほど、始まりが思い出せない。昔からそうなのだ。それで面倒くさいことになったり、ならなかったりもしたけれど、まあ仕方ない。思い出せないものは思い出せないのだし。
そんなわけで今回、浅生鴨さんにお会いして新刊『どこでもない場所』についての話を聞かせてもらうことになったのだけど、そのきっかけが例のごとく定かではないのだ。すみません。
もしかしたら、そのうち思い出すかもしれない。ともかく8月の某日、出版社で担当編集のMさん共々お会いして取材させていただいた。その日もじっとりとした東京産の熱が朝から街を覆っていた。
迎えてくれたMさんは早々に「すみません!浅生さんなんか日にちを間違ってたみたいで、いまこっちに向かってるんです」と申し訳なさそうに僕に言う。あ、浅生さんがいる。その瞬間に思った。なぜだかわからないけど、そこに平常通りの浅生鴨さんがいてくれたことがうれしかった。
そんなふうに書くと嫌味に取る人がいるかもしれないけど「僕はほんといい加減なんです」と公言して憚らない浅生鴨さんがいてくれたのに「ああ」と思ったのだ。「そういうふう」なスタイルを取ってるのでなく素でそうなのだと。
しばらく、編集のMさんとなぜか土の話なんかしてるところに浅生鴨さんが、ほんとによろめくように現れた。雪山で遭難しそうになって山小屋に転がり込んだ人みたいに。
その日、それから数時間の間、僕は「どこでもない場所」にいた。
関係ない話だけど、僕は「鴨」という漢字を書くとき、いつも“甲”がどっち側だったか迷う。とりあえず書いてみる。右側だったっけと思って書くと
“鳥甲”という字になって「え?」と思う。なんか違う気がする。
左側か…と思って“甲鳥”と書いても、まだ何か合ってるような違ってるような気がして落ち着かない。そこで迷っていても仕方ないので「今日は鴨だろう」と思い込む。
一応もの書きをやっていてそんなのでいいのかと不安になるけれど、ありがたいことに21世紀なのでフリックしたりキーを打つとちゃんと“鴨”の字が変換されて出てくるので大丈夫なようになっている。文明万歳。
なのに浅生鴨さんは手書きだというから…その話をうっかり聞くのを忘れていた。
*
なぜ浅生鴨さんに会って『どこでもない場所』の話を聞きたいし、僕もどこでもない場所について話したかったのか。記憶の薄皮をめくりながら取材が始まった。
そうだ。「本当のことば」がそこにあったからだ。本当のことば。ことばそのものに本当も偽物もない。そういう見方もできるし、よほどのことがない限り僕らはことばはことばとして受け取っている。
それでも僕は『どこでもない場所』に収録されているものを読んで、あ、これ本当のことばだと思ったのだ。たとえば、このエッセイとか。
という感じで、これから数回noteに書きます。エッセイの中身(ネタバレになるような話はないんだけどと浅生さんは言われてたけど)についてというより、どこでもない話の周辺を漂ってるよくわからないけど何か気になるものたちについての話です。
どこに辿り着くのか、どこにも辿り着かないのかも誰も分からない。どこでもない場所を巡るロードムービーみたいな感じで読んでもらって、気になったら本も手にとってもらえたら僕もうれしいです。個人的にはこういう本が「ちゃんと売れて」ほしい。
この記事はともかく「すぐに役に立たないからいい本」なので。