
大人と本当の恋は通り過ぎてからわかる
高校生のころジャズが好きになった。またなんかスカしたこと言ってんなと思われそうだけど本当。
いまから思えばだけど、たぶん17歳とか18歳っていう年齢がしっくりこなかったんだと思う。
しっくりきてた人っているんだろうか。いるんだろうな。100%の17歳を過ごしてたって人だって。
いまはもうほんとに2億パーセントぐらい年齢ってどうでもいいなと思って生きてるので、何がそんなにしっくりこなかったんだろうとその頃の自分がふしぎになる。
いまは「大人」というくくりだけで十分だ。
じゃあ、人はいつから大人になるのか。このテーマは壮大と言えばそうだし、ものすごく個人的とも言える。アンビバレンツなテーマだ。
まあでも僕は文化人類学とか社会学の専門家でもないので、個人的なことでしかアプローチできないのだけど。
結論だけ言うと「大人とは、まだ大人じゃない人が気づかない次元のことができてしまう人」なのだと思う。
積極的にできるのではなく、できてしまう。たぶん意味わからないので、僕の個人的な経験を書く。
*
冒頭の高校生のときだ。いまから考えれば馬鹿としか思えないことを友だちとする一方で、ときどきそんな自分から抜け出したかった。決してくだらない仲間と過ごす馴れ合いが楽しくなかったわけではない。
でも、なんとなくそれだけでは「違う」と感じていた。何がどう違うのか。それが自分でもよくわからずにもやっとしていた。17歳とかなんてそんなものだろうけど。
早く20歳ぐらいになりたかった。なったからといって劇的に何かが変わるわけでも(大人のルール的なことを除けば)ないのもわかってたけれど、それでも17歳のなんやかんやが自分には面倒くさかったのだ。
そんなときに、なんとなく入り浸ってたのが、あるターミナル駅近くの路地裏にあったジャズ喫茶だった。
ジャズ喫茶っていま通じるのかな。よくわからない。でも、そう呼ばれてたのでジャズ喫茶だ。
白熊ぐらいなら住めそうなJBLの大きな箱型のスピーカーが、さして広くない店のかなりの面積を占めていて、マスターのチョイスでレコードのジャズが店内を震わせるようにかかっていた。
マイルス・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』(高校生にモード・ジャズなんてわからなかったけど、店の空気に溶けてるのはわかった)とか、ウェザー・リポートの『ヘヴィ・ウェザー』(このアルバムは少し距離が近く感じられたし、いま聴いても古くない)なんかだ。
CDプレーヤーもあったけれど、流れているのはほぼレコードだった。もちろん、高校生の僕がジャズに詳しいわけでもなく(音楽的に好きは好きだったけど)、ジャズ喫茶に入り浸ってた理由はただ「どこでもない空間」だったから。
*
ジャズ喫茶とはいえ、夜になるとジャズ・バーになってお酒も飲める。そんな店に高校生が客として入り浸ってるのは、おいちょっとまてだと思う。
べつにすごくマスターと親しくしていたわけでもないけれど、たぶん、店では最年少だったので(そりゃそうだといまならわかる)なんとなく「いつもよく来る子」みたいになっていた。
マスターは基本的に無口で、いつも同じような口調で「いらっしゃい」とだけ言ってくれる。そういう関係性の世界に触れられるだけでも、その頃の僕にはなんていうか落ち着けたのだ。
関係ないけど、この店のピザが好きでよく食べてた。
これもいまならわかるけど、ジャズ喫茶やジャズ・バーはピザを食べに通う店じゃない。特に夜なら、それなりのお酒も頼まないとお店にとってはうれしくない客になってしまう。
たぶん(自信はないけど)そのときはまだお店でお酒は飲んでなかったと思う。
そんなことをいろいろ思うと、当時のマスターは当たり前だけど「大人」だったのだ。大人から見て、子供でも大人でもない中途半端な僕をいろんな意味で黙って見てくれてた。
いまになって僕もそれがわかるような気がする。本当にアウトなところまでいってなければ、わかっていても余計なことは言わない。もちろん、その頃の僕が、周りの大人がそんなふうに黙って見てくれてたかもしれないなんて思わない。
もしかしたらマスター的には僕に対して「……」な部分もあったかもしれない。それでも、僕が気づかないところで大人な対応ができてしまう。
「大人とは、まだ大人じゃない人が気づかない次元のことができてしまう人」というのは、まさに僕が入り浸ってた店のマスターみたいな人なんだろう。
BarBossaの林さんはcakesの連載でこんな記事を書かれてたけど、もしまだあのジャズ喫茶がどこかの街でやっていたら(再開発で移転したという噂は聞いた)、何も言わずにもう一度訪れてみたい。
あの頃マスターに放置してもらって学んだ「好き」が大人の自分の成分の何10パーセントにはなっている。
*
そう思えるようになったいまの僕は「大人」なのだろうけれど、気づくのが遅い。大人と本当の恋はいつだって通り過ぎてからわかるのだ。
※昔のnoteのリライト再放送です