秋の終わりの指音
階段を上がって真紀の部屋に着いてピンポンを押したら、知らない男の人が出てきてびっくりした。
部屋、間違えた? でも見覚えのある真紀の傘がドアの横に立て掛けてあるし。わたしが言葉を探していると、
「あ、友達だからいいの。ゴメンいま手が離せなくて。奈緒でしょ? 上がって」
と、奥のベランダのほうから真紀の声がするので、友達だからいいというのはわたしのことなのか、男のことなのかどっちだろうと思いながら、真紀の声が普通だったので言われたとおりに部屋に上がった。
知らない男の人の背中の向こうに見える真紀の部屋の中は、前に来たときととくに変わってるように見えない。そのことにちょっとだけ安心する。
真紀がベランダで洗濯物を干し終えたらしく、部屋の中に戻ってきても知らない男の人は一言も喋らない。
「気にしないで。それでも喜んでるから」と真紀は言う。
男の人はニコニコしていて、しきりに右の指をパキンと鳴らしている。
わたしがじっと見ていると、真紀が午後の紅茶のペットボトルをぶら下げながら「あ、やっぱり気になる?」と言う。
男の存在と指を鳴らすの両方だけど、どうやら真紀は男の人が指を鳴らすことを言ってるみたいだ。
「この人ね、習性なの。指を鳴らすの。 最初さ、わたしも気になったんだけど、なんか今は鳴らないと気になる、っていうか安心する」
そうなんだ。ていうか誰?
「隣の部屋でわたしが仕事してるじゃない」真紀はかまわずに続ける。
「ふっと集中してたのが切れたときに指の音聞こえてくるじゃん。夜中にコンビニで知らない誰かが働いてるの見てちょっとだけほっとするみたいな感じなんだよね」
*
そういうのってあるよねとか、わたしと真紀が、そういえばこの前買った…見せてあげるとか話してるあいだも、知らない男の人はずっと何もしゃべらず指を鳴らしてニコニコしているだけだ。
たしかに真紀が言うとおり、指の音もだんだん気にならなくなる。
「この人ね、捨てられてた」
さすがに、今度は「えっ?」と口から出る。
「調べてみたんだけどさ、メルカリでももうそんな買いたい人いないみたいでさ。指鳴らす人って需要ないんだね」
そうなんだ。でもだからって部屋に置いてあげなくても。
「べつに害ないよ。いいこともないけど」
そんな話を真紀が目の前でしていても、男の人はただニコニコして指を鳴らしている。
すっかり暗くなって、そろそろ帰るという頃になって指の音が弱くなる。
「今日もう終わりなんだね」真紀が言う。
部屋に連れて来たばかりの頃は、とくに何も気にしなくても指を鳴らし続けてたのに、最近は気が付いたら止まってることもあるのだという。
真紀の部屋からの帰り道。
ふと、さっきまでいたはずの部屋も何もかもがすごく遠くに感じて、わたしはちょっと泣きそうになる。
※昔のnoteのリライト再放送です