正しいスナックの過ごし方がわからない
未だにスナックで飲んだことがない。いい大人なんだけど。
そう、あの独特の狭い扉を開けたらカウンターの向こうにママが待ってる、大人の楽しいお店。中学生のときに鹿児島のスナックでご飯を食べさせてもらった経験はあるけど、それはたぶんカウントされない。
世の中の人は、いつスナックデビューするのだろう。
酔っ払い上司に連れられてよくわからないまま「こいつ新入り。頼むよ、これからお世話になるから」とか言われて、いや、スナック行かないしと思いながらママに頭を下げたりするのだろうか。
*
カランコロンカラン。僕の中のスナックではドアを開けると鈴が鳴ることになっている。設定が古い。
「あら、いらっしゃっい」
はじめてなのに久しぶりみたいなテイでママが声を掛けてくれる。
まず、なんて返せばいいんだろう。「あ、どうも」じゃだめな気がする。
どこでもカウンターの空いたスツールに座っていいのか、最初に何を注文すればいいのか、それすらわからない。〈はじめてのスナック入門〉マニュアルを読んでこなかったことを後悔するはめになる。
とりあえず僕は店の中を見渡す。
カウンターの背面にはウィスキーや焼酎のボトルが並んでいる。細長い店の奥のほうに天井から斜めに液晶テレビがぶら下がる。
カウンターの上には、なぜか毛糸でつくられた人形が置いてあったり、手づくりのお惣菜が、どこかの他人の家のお皿みたいなのに盛られている。
おいしそうなので食べてみたいのだけど、それは注文するシステムなのか、それともママが適当に出してくれるのだろうか。
思わずスマホで調べようかと思って《スナック ママ お惣菜》で検索すると、なぜかホリエモンが何かのイベントでスナックについて熱く語っている記事が最初に出てきたので僕はあわてて画面を閉じた。
無駄にどきどきさせられて、どうしようかと思っているとママが「ちょっと待っててね」と言い残して店を出て行く。スナックのママは近所の他の店、焼き肉居酒屋だったりに、なにか食べるものを頼んでたりするのだ。
*
僕が独り、店に取り残されてると謎のヘビ柄のシャツを着た常連っぽいお客が入ってくる。え、こういうときどうしたらいいんだろう?
「なんだママいないのか」
常連客は入って来るなり、一見客の僕が店にポツンといることにとくになにも思わない様子で言う。
「あ、ちょっと外に」僕が一応説明する。
「いいよべつに。いつもの」
なぜか常連客は僕にオーダーする。え? いつもの?
ここはきっと聞き返したらだめなのだ。スナックに行ったことはなくても、それぐらいはわかる。
仕方ないので心の中で(入りますね)とつぶやきながら、カウンターの中に入って「いつもの」をグラスに注いで常連客に出す。あと、よくわからないけど、カウンターの中にラップが張られた小鉢があったのでそれも出す。
常連客は何も言わず、グラスにあいさつするように少しうなずいてから「いつもの」を飲む。僕も常連客の一つおいて隣に座って、いつものじゃない「いつもの」を飲む。
少しだけ自分がこの空間に馴染んでくるのがわかる。
「いい店だったんだよな」
常連客が酔ったような眠いような目で独り言つ。
ふと、顔をあげるとカウンターの後ろの棚にママによく似た女の人の小さな写真が飾ってある。
ママはまだ戻ってこない。
※昔のnoteのリライト再放送です