ものを書くなら気持ち悪いを恐れるな
書きたいことはある。テーマは自分の心のドアを叩いてる。なのに書けない。
どうしてなんだろうと悩む。ものを書く人なら少なからずあると思うんです。いったいなぜなのか。どうしたら書きたいのに書けない檻から脱出できるのか。
ちょっと考えてみました。
ものを書いて何かを表現する人は、見えない敵と戦ってます。
上手く書けるか、書いたものがいいねとか、好きだとか快い評価をされるか。こんなこと書いて嫌われないか。
でもよく考えてみたら、そういう敵(あえてそう表現しますが)は自分がつくり出してるんですよね。どこにも本当はいない。
そもそも自分の文章を読んでくれる人がいたとしても、その人たちは「上手く書いてほしい」「好きって言いたい」などと思って待ち構えてるわけでもなんでもない。
同人誌とか自分と特定の編集者、特定のクライアントとか1対1の関係性で書くものなら少しはそういう要素もあるかもしれない。発注してる文章とかなら。
だけど1対nで不特定多数の「誰か」に届ける文章(noteも基本的にはそうですよね)はそうじゃない。自分が書きたいから書くわけです。
本来、誰も敵なんかいない。もっと言えばそこには自分しかいない。
だったら見えない敵を恐れてびびってるより、自分の中のどうにかしたがってるもの、どうにもならないものをちゃんと「書いて」あげたほうがいい。その作業ができるのは自分だけだから。
そう考えると、どんなものであれ「書く」「言葉にする」ってそれ自体に意味がありますよね。
で、ここが重要なんですが、そうやって自分の心のドアを叩いてたものを解放して書いたものって、たいていなんか気持ち悪いんです。
気持ち悪い文章でいいし、気持ち悪い文章がいい。独りよがりとかではなく、本当にそう書くしかなかった文章。頭の中でこねくり回したのではなく漏れ出てきた文章。そんなの気持ち悪いに決まってる。
だけど気持ち悪いという反応も「文章」にとっては褒め言葉なんです。ある種の。文章にとって何より辛みなのは何も反応がないこと。誰の気持ちにもつながらないこと。
好きもいいけど、気持ち悪いという反応だっていい。何か気持ちが動いたわけだから。
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僕も昔、ブログでわざわざ「気持ち悪いこと書かないでください」とコメントもらって、瞬間的には「……」となったけど、それぐらい何かあったんだなと思いました。べつにエロとかグロなこと書いたわけでも、心の声をダダ漏れさせたわけでもないんですが。
しかも、そうした反応は大体が無意識です。去年の夏に燃え殻さんが東洋経済ONLINEに載せたエモいエッセイが盛大に炎上したけど、それだけ何かしらの感情を動かしたわけじゃないですか。
そもそもの媒体の特性とかプロモーションの絡みとかとの相乗効果もあると思うけど。
「男はみんな~」と決めつけるなというのも、極大化して見せるのがある種のネットメディアの文法だし、「いい歳した男の思い込みファンタジーがキモい」というのも、世界なんてみんなそれぞれの思い込みで成り立ってるんだから、もともとがファンタジーでしょ。それを認めたくない人のほうが多いけど。
あと、ネガティブ反応が出るものに共通してる心理があって、そういうのって「本当は自分の中にもあるもの」の無意識な逆転移だったりもするんですね。
俺らはそういうの封印したり乗り越えてんのになんでお前は堂々とそんなことしやがって、書きやがってみたいな。もちろん反応してる本人は無意識なので、そうは思ってないわけですが。
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話を戻すと、1対nでものを書くときに「好かれる」とか「嫌われる」はどっちだっていいんです。なんにも反応がない無関心よりは何かあるというのは、ちゃんとその文章が「生きていた」証拠だから。
ポジティブな反応がまったくゼロで、気持ち悪いが120%だとさすがにあれかもしれないけど、本当に「その人」が出てる文章ならそうはならない。
気持ち悪いと思われるぐらいのものを書いてみよう。そんな覚悟がある人には結果的にプラスが多いんじゃないかな。
僕に「生きている文章」を教えてくれた作家のひとり、チャールズ・ブコウスキーだってすごくいい文章ですごく気持ち悪い。それが魅力だしその書き手の唯一性なんですよね。
彼の墓標に刻まれた「DON'T TRY」という言葉も深すぎるけど。