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盗む人

「わたし、盗むの得意なんです」

ひと通りの打ち合わせが終わったあとで、担当者が不意に口走った。

これ以上、とくに確認すべきこともすり合わせることもない。どのタイミングで席を立とうかを考える、あの所在ない時間。

僕がこの世で4番目に苦手な時間なのだけれど、担当者の女性がそんなことを言うものだから席を立つに立てなくなった。

独り言にしては断定口調だし、ネタ的な軽口を言う場面でもそんな関係性でもない。


「え、でもそれって犯罪…ですよね?」

まじめに受け取っていいものなのか。鳩が人から露骨に差し出された餌に近づこうかどうしようか迷うぐらいには逡巡して、そう返した。

「いいえ、犯罪にはならないです」

彼女は淀むことなく言った。打ち合わせの続きみたいな言い方だったけれど、どう考えても仕事にはミリほども関係がない。

混乱している僕に彼女はさらに告げる。

「他人の所有物を盗み取るのが犯罪です。でもわたし、他人の所有物は盗みません。だから犯罪にはならないです」

「じゃ、何を?」

「目の前にいる人の所有してないものを盗むんです。たとえば、電車でわたしの前に乗ってきた人とかの所有してないものです」

所有してないものを盗む? 意味がわからなすぎる。一瞬、カード情報とかデータのスキミング的なものとかとも思ったけれど、それだと確実に犯罪レベルだし、そんなことをわざわざ僕にここで話すとも思えない。

「あの、ごめんなさい。ちょっとわからないです」

言ってることの、というのと目の前の担当者の女性がの両方の意味で僕は言った。

「ですよね」

そこは同意するんだ。おかげでさらにわからなくなる。彼女の表情に、薄い三日月の切れ端ぐらいの笑顔が見えたので、席を立つタイミングだった。

だけど、と僕の中で何かが引っかかった。この先、僕はこの担当者と仕事上のやりとりをしなくてはならない。そのとき、たぶん、いまみたいな話は出てこないだろう。

何ごともなかったように(実際、何かが起こったわけでもないけど)、彼女は僕と仕事のやりとりを事務的にすると思う。そのことが逆に「あれは、何だったんだろう?」と気になるかもしれない。

そうじゃなくても、僕は「あれは何だったんだろう」を自分の中に持ち過ぎなのだ。

だったら、やっぱりいまここで聞いたほうがいいんじゃないか。脳内会議をしていた僕の中の誰かがささやく。


「たとえば、僕からもですか?」
「可能性はあります」

担当者は間髪入れずにそう言った。可能性はあります。ほとんどそうだと言ってるみたいなものだった。

この仕事、受けないほうがよかったのだろうか。担当者と別れて駅に向かうまでの間に自問してみたけれど、よく考えたら彼女の言ったことは仕事には何も関係ないのだ。

結局、僕はその仕事をできるだけ余計なことを考えずにやることにした。

文章を書くという仕事はある種の自己完結性、あるいは公理の宇宙に自分を放り込める。導き出されるべきものをきちんと導き出せれば何も問題ないのだ。

それからとくに僕の身辺に変わったことも起こらなかったけれど、担当者が変わった。彼女が急に辞めたのだという。理由は僕には知らされなかった。

新しい担当者は、明らかにいろいろ兼務していて多忙そうな男性で、さらに無理やり振られた案件ということもあって「大丈夫だと思うのでお任せします」だけの引継ぎだった。

案件が無事に検収されたことがビジネスチャット上で連絡され、仕事が終わった。何かがすっきりしなかった。もう、あの女性担当者の顔もぼんやりとしか思い出せない。


※昔のnoteのリライト再放送です