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無言の味
お正月には小津映画を観ると決めている。理由はあるようでないんだけど。
2日からは通常運転で仕事するので、観るのは元日。こんな時代でも世の中の流れが、一応ちょっと治まるというか真空みたいになる時間に小津安二郎監督の作品がちょうどよくて。
今年、観たのは『秋刀魚の味(デジタルリマスター版)』。なんでこの作品をいままで観てなかったのか謎だけど、たぶんいまなんだろう。
僕ごときが小津映画について語れることなんて、ほぼ無いに等しいのだけど、毎回、観るたびになんとも言えない気持ちになる。
こういう「もしも」は、いろんな次元でまったく無意味なのわかってるけどつい考えてしまう。もしも、この作品が2021年のいま、まったく新しく公開されていたとしたらどうなるんだろうとか。
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前提として「名作」であることに変わりはない。いろんな意味で深みがすごい。
なんだけど、もしもSNSでわかりやすく切り取られた評判が四方山に飛び交ういまの時代なら、その名作の所以の部分がちゃんと受け取られるのだろうか。
端的に、ある部分だけ切り取ってしまえば「炎上」しそうな要素も含まれてるし、タイトルの『秋刀魚の味』もまったくわかりやすく回収されない。
なにより、小津映画の「味」として、台詞以外の部分のメッセージがものすごい。小道具もそうだし、台詞を交わす前と後の「言葉にできない」何かが、何層ものレイヤーで積み重なっている。
こういうのって決して「わかりやすい味」ではない。
だからといって、わざと難解につくられている映画ではないし、小津映画に通底するものはすごく人間的だ。表面的なヒューマニズムとかではない、善も悪も切り分けられない人間とどうしようもなく向き合わせてくれる映画。
わかりやすくない人間がわかりやすくないまま「ちゃんと」描かれている。人間的というのはそういう意味。
だからこそ「小津映画」というひとつのジャンルにすらなってると思うのだけど、そういうのって語るのが難しい。