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浅生鴨さんに会ってきたかも(その1)どこでもない場所にたゆたう人

浅生鴨さんの新刊『どこでもない場所』の周辺に漂っているものたちが気になって始まったインタビュー。前回(予告編)を読み飛ばした方はこちら
 
 
まだ携帯電話が単なる携帯電話だったその昔。着メロが16和音だとか、光るアンテナ、ジョグダイヤルを無駄にぐりぐり回してたりの時代だ。
なにそれ? という人はインターネット老人会に入れなくて残念かもしれないけれど、まあそういう時代があったんだと思ってほしい。
 
いま、スマホの新機種が出ても一部のギークな人たちの間で盛り上がるだけだけど、当時はケータイの新機種を「みんな」が追いかけていた。異様なぐらいに。
 
そんな中で、ライターの知り合いの一人が「携帯とか持たないで生きられるようになりたい」と言っていたのがなんとなく忘れられない。彼女は意識が高いアンチデジタルというわけでもなく、ただただ自然にそう考えていた。向日葵が日焼けサロンで咲きたいとか思わないように「私はなくても大丈夫」と言っていたのだ。


私には、これはなくてもいい。単純なことだけど、何につけてもそう言える人は少ないし、実際にできてしまう人はもっと少ない。
 
浅生鴨さんの場合は「名刺」がそれだった。浅生さんは名刺を持たない。秘密の名刺があるかもしれないけど、たぶんない。
 
         * 

僕の渡した名刺を「これ活版だよ!」と編集のMさんに見せ、しげしげ眺めながら浅生さんは「こういう名刺あると楽しいなと思うけど」という。
 
世間一般では人と会う仕事、あるいは業務を頼んだり頼まれたりする人は「名刺交換する」という暗黙の了解みたいなものがある。そこを浅生さんは「なくてもいいんじゃないかな」と考えてそうしているようだ。
 
「浅生さん、名刺持たないんですね」一応、僕も聞いてみる。
 
「僕と会う人は、僕が何者か知ってる状態でお会いすることがほとんどだから、こういうものでございますって説明する場に行くこともないし、だったらなくてもいいんじゃないかなって」
 
たしかに、そう言われればそうだ。「あ、そうかも」と思わず言いそうになる。
浅生さんも「NHKの中の人」をしていたときは名刺を持っていた。
 
ある若手論客たちとのイベントに出たときは、終了後に来場者が列をなし「この人たちと僕は一生、連絡取り合うこともないんだろうな」と思いながら、一生連絡を取り合うこともない人たちと延々、名刺交換している自分って何なんだろうと思ったという。
 
「だったら、僕の連絡先はこれですってホワイトボードに書いて、それをみんなが写せばいいよね。本当に僕に連絡取る必要ある人なら、いろいろ探せば取れるわけだし。延々と本当に必要でない人とお互いに時間を使い合うのって不思議だなと思ってました」
 
 
みんなが特に何とも思わずやっていること。それが「不思議」だから「不思議」と感じて思う。その本質が浅生鴨さんという「どこでもない場所」にいる人をかたちづくっている気がする。
 
本当に自分が必要とすることなら脈絡があってもなくてもやるだろうし、必要なかったら「すごく関連性があるのにやらないの?」と周りから思われてもやらない。そういうのって、なかなか理解されづらいんだろうな。
 
まあだけど、浅生鴨さんはこと“自分”に関しては「ちゃんと理解されたい」とか、あまり思ってないみたいだ。それよりずっと大切なことをいっぱい抱えていて、そこにはわりと丁寧に想いを繋げていくことを惜しまないというか、そうしてしまうのに。


アゴタ・クリストフの『悪童日記』を僕はふと思い出す。
物語に出てくる“ぼくら”は「毛布が必要です」と言うけれど「毛布が欲しい」とは言わない。これも脈絡ないけれど、一瞬、どこかでは繋がってないとも言い切れない気がする。
 
 
「うちの親がそれがひどくて」と浅生さんは言う。自分が必要かどうかの話だ。
 
「うちの母は結婚式とか呼ばれて行って帰って来て、もらった引き出物を『これ、もう要らんわ』ってその場で捨てるんですよ。ゴミ箱に。要る、要らないがはっきりしてる」
 
なるほど。親の影響っていう表現は迂闊に使いたくないけれど、なんとなくわかる。
 
「僕はそこまでひどくはないんですけど。2日ぐらいは手元に置きます」
 
浅生さんが真顔で言った。それでも2日なんだ……!!
 
 
だけど、生きてると「要る、要らない」を超えたところで、いろんなものをいつの間にか抱え込むことがある。浅生さんは、そういうのどうしてるのだろう?
 
「物理的なものだけじゃなくて、いろんなものが溜まっていくというか。人間関係というと酷いんですけど。定期的にそうじとかしたほうがいいんでしょうね」
 
それって意識的にということだろうか。それともクーロンで動くプログラムみたいに?
 
「別に定期的にとか意識はしてないですけど、ある日、突然そういうタイミングがくるんですよね。何かが起きて勝手に整理されていくみたいな。僕みたいな職歴を変えることが多いと」
 
ちなみに編集のMさんが気になって浅生さん「何人分の職歴なのか」数えてみたら、1人でだいたい16人分あったらしい。
 
だからといって、その職も意識的に変えたわけでもなく「ウチ来ない?」と誘われて、「じゃあ、行きます」って、そのタイミングで付き合いのある人が変わったり、職が変わった先の先で、また前々職との思いもかけない仕事のつながりがあったりの結果。
 
「そういうのくり返してると、残る人、残らない人がだんだん出てくるのかな。そんなに意識して何かを切り捨てようというわけでもない。勝手にそうなるよねという感じ」
 
         *
 
そうなのだ。浅生鴨さんは常にたゆたいながら生きている。抗うでも流されるでもなく。なりたい自分を持って、そこに向かって全力でPDCAを回してなんていう生き方をしてる人からすれば開いたくちばしが塞がらないかもしれない。

達観でもないし、自覚とも違う、諦めでももちろんない。がんばるのでも、がんばらないのでもない。浅生鴨さんのワールドに迷い込んでいくと、自分のいる世界がよくわからなくなる。

こういう生き方が正しいのか、正しくないのかなんて果てしなくどうでもいいことで、なんだかどれも「悪くないな」という気分になってくるのだ。そうやって迷い混乱してると『どこでもない場所』に連れて行かれることがある。こことか。その面白さとリアルさ、ときには寒々しさにハッとする。

そして、今、僕の目の前にいる人は僕とはまた違う『どこでもない場所』を知っている人なのだと思うと、少しうれしく少し嫉妬するのだ。

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浅生鴨さんは名刺交換はしないけれど、もらった名刺には似顔絵(!)とかメモを書き込み住所録に記録するらしいです。僕が渡した名刺に何が書かれてるのか何も書かれていないのか。ちょっとだけ気になる……。

つづく