「反応」するんじゃなく「考えよう」
最近、ネットが疲れるという話を聞く。まあ、ネットと言ってもスマホが疲れるも同義なんだけど。
センシティブな話が何年分だよというぐらい押し寄せて来て、何か気が急かされたり、重苦しくなったり困惑したり。
だからなのか、意図的にネット見ない離れるという人もいる。それもわかる。
けど、生活的にも仕事的にもあれこれで離れたくても離れられないのも現実。否応なくライフラインになっちゃってるから。
ネットなしに他のメディアだけ、あるいはメディアと完全に距離置いて生きるのは、それなりの環境と自分を持ってないと難しい。
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で、ちょっと冷めた頭で考えてみてほしいのだけど、ネットが疲れるのはネットそのものが本当に「要因」なんだろうか?
ネットはひとつの情報、もっと言えばビット(最近言わない気がする)が行き交うデータでしかなく、そこに意味づけしてるのは自分。
ということは自分がネットのデータをどう処理してるかの問題かもしれない。端的に疲れる処理をしてるのだ。
その大きなものが「反応」なんだと思う。
とっさに「嫌だ」「どうしよう」とか、「やべぇな」「ふざけんな」とか「これ、みんなにも教えないと」みたいな反応ってしがちだけど、そこをちょっと見直してみる。というか意図的に変えてみる。
どうするのか。
反応より「考える」をする。自分にとっての意味だとか、本質的には「何が大事」なんだろうとか。ちゃんとネットの反応と切り離された自分の頭で考えればいい。
そう考えれば、いまのいろんな状況も、あらためて自分の頭で考えさせてくれるきっかけなんだと思う。そりゃ、大変だよ。わかってる。
だけど、必要以上に大変にしないためにも反応しそうになったら、そのときに一瞬距離を取る。これもある種のソーシャルディスタンスだ。
良くない反応の感染を避けるという意味でも。