居酒屋で名前を失くした午後
居酒屋の順番待ちが、いまだによくわからない。なんだか自分だけがいつも忘れられている気がする。
いや、ほら最近の店はタブレット的なあれとかのシステムを操作して、べつに店内で無の時間を過ごさなくても、入店できるようになったらスマホに知らせてくれたりするけど、そうではない昔ながらの店では。
暑すぎる午後だった。街に覆いかぶさるように盛り上がっている積乱雲を見ていると、だんだんビールの泡にしか見えなくなった。
どこでもいいからビール飲みたいね。妻も同じことを考えてたらしく、通りを歩いて目についたビルの地下にある居酒屋に入った。
入り口は狭く、すでに何組かのお客が待っていた。店のレジの後ろが細い廊下になっていてその奥に客席があるらしい。全体的にほの暗くてなんだか京都とかによくありそうな町家を模したつくりみたいだ。陰翳礼讃。
奥を伺っているとお店の人が出て来て「2名様ですか?」とたずねられる。
ちょうど最初のお客が入れ替わる時間帯なのか「15分くらいでご案内できますよ」というお店の人の言葉を信じて待った。
僕らのあとからも、まあまあのペースで新しいお客さんが入ってくる。比較的早い時間帯なのに人気店なのかもしれない。
15分が過ぎた。何組か案内されて僕たちはスルー。待たされている廊下には朱色の欄干が並んでいる。妻と湯婆婆とか居そうだねと話す。ベタすぎる。30分経過。やっぱり呼ばれる気配がない。
どう考えても、後から来たようなお客が先に呼ばれている気がする。だけど確かめる勇気がない。僕ら以外に待っているお客も、どういう順番で案内されるてるのか薄々疑問に思ってるのが伝わってくる。
まあ、たまにそういう店がある。ハズレだったのかもしれないけど、いまさらまた外に出て他の店を探すのも面倒だ。典型的なサンクコストだなと思いながらも、もう少し待ってみる。
*
とうとう、何事か相談していた女の人たちのグループが店の人をつかまえて順番をたずねている。すると、その女の人たちのグループが次に呼ばれて案内される。
もしかしたら、この店は自分の存在をアピールした人から先に席に案内されるシステムなんじゃないか? だとしたら、千と千尋の世界に浸っている場合じゃない。
僕は勇気を振り絞って店の人にたずねる。
「○○のようなお名前では承っていませんが」
返ってきたのはまさかの答え。店の人が聞き取るのを間違えたんじゃないかなと、僕はたずねてみる。というか、ウェイティングリストに名前を書くわけでもいので、どうやってお客の順番を把握してコントロールしてるのだろう。
「似たようなお名前でも伺ってないですね」
店の人もふしぎそうな顔をする。どうしたらいいのかわからない。仕方ないので「ゴンダワラで伝えたかもしれないです、名前」と僕は適当に言う。
「……ゴンダワラ…ゴンダワラ。ありました。ではご案内します。2名様ご案内です!」
店の人もようやく居酒屋らしい空気を撒き散らしながら僕らを奥の席に先導していく。
「やっとだね」
僕と妻は顔を見合わせ、苦笑する。こんなことなら最初から名前をフランソワとか言っておけばよかった。
運ばれてきたビールを飲みながら、みんなが名前を失くした世界って、それはそれであるのかもしれないと少し思う。名前が必要になったときだけ適当な名前をみんな付けるのだ。
だんだん自分と目の前のグラスの境界線が溶けていく。地上では路線バスとUber Eatsの配達員が溶けあい、携帯電話ショップのスタッフと信号機がタクシーのクラクションと一緒に溶けていく。
あらゆるものが名前を失くした世界はなんとなくぬるっと動きつづけている。そう、なんとなく。
※昔のnoteのリライト再放送です