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わらしべ長者はなぜ大事な話なのか?

すべてを自分の思い通りにできたら楽なんだろうか。たまに考えなくもないけど、だいたい出る答えは「そうでもないな」だ。

いや、そりゃいろんなことが思い通りにならないよりは、思い通りになったほうがいいのはいい。だけど、すべて思い通りになるは、ひっくり返すと「すべて思い通りにしかならない」ということ。

これって、よく考えたらおもしろくはない。不確実要素がゼロなのだ。

仕事でも、どうなるかわからないけどこうなったらおもしろいみたいなものって単純に気持ちが動く。もちろん、それは人によるし、中には確実なものじゃないと嫌だ怖いという人もいる。どっちがいいという話でもない。

その中には、「なんで、これがいま自分のとこにくるんだ?」と訝るようなものもあって。

昔はいちいち「なんでだろ」と考えてた。考えたって仕方ないんだけどね。

あるときから考えるのをやめた。よほどのこと(廃墟の地下室に拉致られて謎の赤いボタンを押させられるとか)じゃなければ、まあそのまま乗ることにしたのだ。

歓迎でも嫌々でもなく、なんていうかフラットな気持ちで。

そしたらこんな変化があった。たいていのことが自然につながるようになったのだ。

個別にはまったく関連ない事象AとDがつながってKになり、それがずっとそうしたいなとイメージしてたPを実現させるきっかけになったり。

これ、なにかに似てると思ったらあれだ。「わらしべ長者」だ。

偶然、手に触れたなんてことのない「わらしべ(藁)」が、なぜか最終的には屋敷(価値あるもの)に変わっている。

同じように、あとから考えると「そういうことだったのか」と腑に落ちることが増えたのだ。最初のAからPまでのつながりが、そのときになってようやくつながってるのが見える。

まあべつにそんなの珍しい話でもなくて、多かれ少なかれあることなんだけど、そういうのなんて言うんだろうとはずっと思ってた。

セレンディピティも近いけどそこまでじゃない。そしたら、ある人が「偶有性」って言うんじゃないかと教えてくれたのだ。

わらしべ長者という名の必然でも偶然でもない「偶有性」。確実性と不確実性のあいだを揺蕩う何か。固まっている部分と固まっていない部分。どっちも持ってる状態。

アメリカの心理学者John William Atkinsonは、人間が何かの目標に対して達成したいと思える動機の度合いは、対象となるものの成功確率が50%のときにもっとも高くなるという「達成動機理論」を提唱したけど、わらしべ理論と言い換えてもいいかもしれない。

わらしべが持つ成功確率は50%。どうなるかわからないけど、まったくどうにもならないわけじゃない。

このなんとも言えない感覚を忘れたとき、たぶん世界がのっぺりとして味気なくなるんだろう。


※昔のnoteのリライト再放送です