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ひどい話を聞いたときにどうするか

ライターの仕事をしていると、聞かなくてもいい話を聞いてしまうことがある。なんだそれ、と思うような。

まあ、ふつうに生きててもあると思う。ただ、そのレイヤーが通常なら自分がまったく関係ない世界のものだったりすることもよくある。知らなくていい世界を知ってしまう。

直接的な被害者がいるものでもないし、善意の第三者(法律的な意味ではなく)が「大変だった」と言ってるだけで実害もない。関係者に疲弊をもたらしてはいたけれど。

だから逆に、ひどい話だと思ってしまう。

まだ実害があれば(あえてそう仮定してるだけで、もちろんないほうがいいけど)、そこにコミットして具体的に何か行動を考えることだってできる。

そういうものでもなく、ただすべて自分の都合と保身1000%で人を動かそうとし、人を利用して何とも思うこともなく去っていく種族の人っているけど、どうしようもない。

信じられないけど、現実にいるのだ。そしてもっと信じられないことに、そういう人がリアルにまさかの「人のことを考えないといけない偉いポジション」についてたりする。

え、あのポジションってそんな人がやってんの? と東京中の鳩が豆鉄砲で振り向くような。

まあ、世の中ってそういうものだし、べつにいまに始まった話でもない。それに、いちいちその「ひどい話」を書いたところで関係者をまた余計なものに巻き込むだけだから。

そういうときにどうするのがいいのか。義憤に駆られて、SNSにぶちまけたりする人もいるかもしれないけど、個人的にはしない。

当事者でもないのだから、そこで何かアクションを起してSNS世論を動かす必要性もないし。だけど、なんともいえないものは澱のように自分の中にちらちらと溜まっていく。

じゃあ、どうするのか。そのままを書くのではなく(当事者ではないからそのまま書く資格はない)、違う何かと一緒に発酵させて書くのもひとつの方法。

あるいは原形をとどめないほど煮詰めて、その嫌な部分もそうでないものも全部自分で消化もして。嫌なものを自分に入れる作業もしないといけない。自分だってそれをしたかもしれない人間なのだということも呑み込んで。

面倒くさいし、逆にエネルギーを使うのだけど、それがものを書いてる人間の「仕事」なんだろう。誰かに発注されたわけでも、読み手が待ってるわけでもないけれど書かれることを待っている何か。

べつにそれで溜飲を下げたいわけでもない。ただ、それをしないといけないんだろうなという自分の中の何かが思ってるだけだ。

あと、もしかしたらそうやって「べつの何か」にすることで、そこから誰かの「良きこと」とか「生きるちから」につながる読む食べものになるかもしれない。発酵食品みたいに。うん、そっちのほうがなんだかいいな。


※昔のnoteのリライト再放送です