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刺激を減らしたほうが退屈しないんじゃないか

「ゴールデンウィーク、やることなくて退屈ですよ」そんな声がちらりと聞こえてきた。そうか、退屈なのか。

どうも、世の中的には「退屈」は良くないものみたいだ。退屈な自分は早々に消し去って、何かでリア充させないといけないし、退屈な場所に人は近づかないように気を付けている。

もう少し大きな意味でも退屈は何かとネガティブな扱いを受ける。退屈な人生とか、一緒にいても退屈な人とか、田舎は退屈じゃないの? とか。

僕の場合、23区でも人口密度1位のところから、人口密度なんていう概念が存在しない村に移り住んだので「田舎で退屈しないのか」な質問なのか興味なのかよくわからないことは結構聞かれた。

結論から言うと、退屈してない。というか、この時季、村暮らしでは退屈してる暇がない。

仕事は平常運転してるし、畑は夏野菜の準備(寒冷地なのでようやく)で野良仕事満載だし、山から持っていっていいよと言ってもらってる木を伐り出して、既に乾かしている原木と合わせて玉切りして今年の冬のために薪割りもしないといけないし、廃村になった集落で田んぼを復活させる作業にも誘われてる。

まあ、そういう作業って楽しいと感じるかどうかは人にもよるし、ほとんど肉体労働に近いことばかりだ。なかには、畑仕事や山での作業なんてしんどいだけで退屈と感じる人だっていると思う。

なんていうか「わかりやすい刺激」みたいなものからは遠いから。

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じゃあ、わかりやすい刺激がないものや場所はすべて退屈なのかというと、そんなことはないと思う。

たとえば、一日に数本しか列車の来ない秘境駅があったとして、その駅でうっかり乗り遅れてしまったら、あとには膨大な退屈が待ってるかというと、そうでもないだろうなと想像してしまう。

何もしなくてよくて電波もWi-Fiも飛んでないから、世の中とつながる必要もなく、ぼんやりする時間も考える時間もむちゃくちゃある。次の列車が来るまでほぼ一日、考え放題なのだ。

考えるのに疲れたら、秘境駅の何でもない景色をただ見てる。それでも退屈ではないだろうなと思う。いまも村に住んでて、とくに名山でもない山の景色を毎日眺めてるけど、どんな景色だっていつも同じではないから。

思うのだけど、どこにいて何をしてたって「退屈」と感じてしまうのは、目の前のものを見てるようで見てなかったり、考えることを放棄してしまってるからじゃないんだろうか。

刺激が多すぎると退屈しないような気がするけれど、じつは刺激が多すぎて一つひとつをちゃんと考えたり消化できないのだ。たくさんの刺激をただ処理するだけだと、刺激に何も感じなくなって退屈が待っている。

田舎暮らしをしてると「刺激」が少ないから単純に刺激のハードルは下がる。長い冬が終わって、春の植物といきものたちが動き始めただけで「刺激」になる。もはや感覚が動物に近い。

東京で分単位で電車が来るのに慣れてると、10数分電車が遅れて来ないだけでみんなイラついてるけど、そもそも電車すらない村の感覚に慣れると、自分が何もせずに電車で輸送されるだけで刺激的だったりする。電車に乗ってるなんでもないことが退屈しない。

そう考えると多すぎる刺激を少し減らしたほうが、退屈しない人生になるんじゃないか。もちろん、人によるとは思うけど。