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思考の帰り道

ものを考えるとき。思考には「行き」と「帰り」がある。

じつは、そのことを言語化してくれたのは森本しおりさんで、そうか「思考の帰り」かと思った。


思考の沼みたいなところに「行く」というか嵌る話はよく見聞きする。けど、そこからどうやって帰るのかの「思考の帰り」の話って、あまりない。

山で言えば、こんな山にこう登ろう、ルートは装備は、そこで得られるものはという記事(山をビジネスや生き方に変えても通じる)は目にするけど、どうやって下山するか。

どんなに最高の山だって、いつまでもそこに留まってるわけにはいかない。下山しなくちゃいけないのだ。仙人でもない限り。

海で言えば潜水みたいなもの。無事に海面に上がって来れないことには文字通り生きられない。

ただね「思考」に関しては、登ったけど下山ルートが見つからないとか、潜ったけど浮上のための目印のブイも掴めるロープも何もないみたいなことがままある。

いわゆる「思考の沼」に嵌って戻れないみたいな状態。あるいは「思考の森」で迷子になったような。

そうなったときに、どうやって思考から「いつもの自分」に帰って来るのか。森本しおりさんは、「私の中で、ふみぐら社さんは帰る力が強そうなイメージがあります」って言ってくれたけど自分ではよくわからない。

そもそも「思考の帰り」についてちゃんと考えたことがなかった。ある?

ここからの話は、ほんとに僕自身の個人的な感覚で話す。誰にでも使える思考ハックみたいなのではない。

自分に当てはめて考えてみると、思考の沼にも思考の山にも行くのだけど、帰り方がわからなかったことってない。気がついたらいつの間にか帰ってる。ほんとはもうちょっとそこに滞在したいときもあるけど。

なんでだろう。ひとつ思うのは僕の場合はだけど、思考の沼でも山でも、そこにずっと留まってることって少なくて、だいたいはジャンプしてる。

いや、ジャンプというより跳躍、リープしてる。瞬間的にそこから別の地点に思考が跳んでる。

命題であるAのことを考え、関連するBやC、バックグラウンドにあるDを考え、そこから考えられる新しい何かのEを考え――みたいなことをやってるうちに、いつの間にか「自分」に帰ってくる。そんな感じ。

とか言われても「わかんねぇよ」だと思う。僕だってどう言えばいのかわからない。なぜなら、自分でそうしようと思ってるわけでもないから。オートマティック。

もっと言えば、思考の行きも帰りも同時だからかもしれない。

何度も言うけど感覚なので許してほしいのだけど、量子物理学的には(専門ではもちろんないので細部はすっ飛ばして)あり得ると思う。光が粒子性と波動性の両方を持つように。

思考だって「行き」ながら「帰る」を同時できる。あ、こういうの「怪しい」系のもあるけど、そういうのじゃなくて。

じつは無意識レベルでは思考の沼でも山でも行く前から「帰りの自分(行く前とは違う自分)」がわかってるのかもしれない。

もちろん、そういうのは正統派(?)の思考ではないので、帰って来た場所が全然思ってもないところにいることだってある。でも、そこにいるのは紛れもなく「自分」だから問題はない。

というか、せっかく思考して帰って来たときに、まったく何も変わらない位相だったら面白くない。個人的には違う場所に進んでいたい。

そういう意味では思考に「帰り」はなくてもいいんじゃないか。

自分を思わぬところに進ませてくれているのだとしたら。という、よくわかんない戯言で終わったら申し訳ないので、最後に少しだけ現実的に使えるかもしれない「思考の帰り道」。

1)あしたの自分に任せる。思考の沼から戻れないときはもう寝る。昼でも夜でも関係なく。そしたら、意外に寝て起きた「あしたの自分」が勝手に何かしらの答えと一緒に自分を戻してくれる。

2)身体の声に従う。まあ聞いたことあるやり方だけど結構使える。脳がすべて思考して判断してるんじゃなく、じつは身体のほうが先に考えたり判断してるっていう最近の研究にもあるみたいに。

3)本の沼に移動する。これは僕もやってる。どうしても「頭の声」がワーワーするときなんかに。読むものが全然、考えてるテーマから外れてても(むしろそのほうがいい)、本に潜ってると不意に「あ、これだ」が浮かんで自分に戻れたりする。

みたいなところ。1)~3)もそれぞれ深いのでまたどこかで。