愛しさとせつなさと猫の言葉と
土曜日はほとんど誰も通らない日なので、戯言を。
ここ何日か、ものすごく圧の高い(いい意味で)言葉にいろんなところで触れて、討たれてる。
共通してるのは、みんな「自分の言葉」なのだ。強い言葉も優しい言葉も。尖った言葉も柔らかい言葉も、すごいスピードで去っていく言葉も、まどろむような言葉もすべて。
そういう言葉に触れると、ちゃんとその人がそこにいるのを感じる。そして誤解を恐れずに言えば、それがどんな人でも愛おしくなる。美しい。
気持ち悪いことを書いてるなと自分でも思う。まあ、だけど本当にそうなんだし。その人とその言葉を三次元的、二次元的に愛おしいというのじゃなくて。なんだろう。言葉と一つになっている生き方だ。美しいのは。
それは、どうしようもない町にも朝日が当たり前のように昇ったり、あらぬところから草花の芽が伸びているような自然の営みを目の当りにしたときに、なぜか不意に愛おしさがこみあげてくるのと似ている。
でも、だから何だって話だ。
二匹の猫、ジョージとケトルが窓辺に寝そべってそんな僕をちらっと見る。尻尾をときどきゆっくりと揺らしながら。
二匹の猫を見ていると、彼らのほうが僕よりちゃんと「自分の言葉」を持ってるんじゃないかという気がしてくる。