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あの夏のライオン

僕には好きなライオンがいる。いや、正確にはいた。

もしかしたら「好きなライオン」というフレーズは、適切ではないのかもしれない。世の中一般にライオンはそうした形容詞を与えられる対象ではないからだ。

まあ、ともかく僕はそのライオンが好きだった。

その日も、久しぶりに動物園に行くと、ライオンがくたびれた表情で僕を待っていた。

「どうしたの、元気ないね」僕は言う。
「歳だからね。暑さがあとからからだにくるんだ」

ライオンはぐったりとした顔を自分の腕に乗せたまま言う。

「そうみたいだね」
「お風呂に連れてってくれないかな」ライオンが言う。

僕は少し驚く。お風呂に、というのではなくライオンが自分からどこかに行きたいというのが珍しかったからだ。

いつも、あまり乗り気でないライオンが僕に引き摺られるように、仕方なくついてくる感じなのに。

「お風呂?」と僕は聞き返す。
「そう。たまにはゆっくりお湯に浸かるのもいいかなと思ってさ」

僕はしばらく考えて、そして「いいよ」と言う。

閉園時間を待って、僕はライオンを連れて銭湯に歩いていく。

途中でコンビニに寄って、ライオンのためにシャンプーを買う。シャンプーにはカオーと書かれている。やっぱりライオン製が欲しかったのだけれど、まあ仕方ない。

番台のおじさんは、ずり落ちそうな眼鏡の上からライオンをちらりと見て、大人と一匹だねと言って僕の差し出した千円札を受け取る。

僕はライオンのくたびれたタテガミやなんかをゴシゴシと洗ってやる。

カオーのシャンプーは思ったより泡立ちが良くて、ライオンは大きくて真っ白な泡に包まれてしまう。僕が洗っているのを、3歳くらいの子が不思議そうにずっと見ている。

時間をかけてシャワーで泡を洗い流すと、ライオンは気持ち良さそうに身体を震わせて飛沫を飛ばす。

ライオンと僕は並んで湯船に沈む。僕はライオンの頭にタオルを載せてやる。
「こうする決まりなんだよ」と僕が言うと、ライオンは真剣な表情でタオルを頭に載せている。

お風呂上がりには銭湯の近くの立ち飲みで、お約束のビールをふたりで飲む。

正直に言えば、僕はビール飲みたさにライオンをだしにしたのかもしれない。まあでも、ぐったりしてたライオンも気分良さそうだし、夏の夜のお風呂上りに飲むビールは裏切らないのだからOKだ。

サクッと飲んで外に出ると、いい夜風が吹いていた。

やっぱり夏っていいね、と僕は言う。ライオンも黙って頷く。

「あ、月の匂いがする」

ライオンが不意に呟く。見上げると丸くなった月が僕たちを照らしている。

今度は、同じ月を頭に載せて歩いているみたいだなと僕は思う。

好きだったライオンはもういない。だけど、夏の始まりの合図を聞くとどうしたって思い出してしまうのだ。

あの夏、泡だらけのライオンと過ごした時間。シャンプーの残り香を連れてきた夜風の気持ちよさ。

ことしも僕の短い夏が始まる。


※昔のnoteのリライト再放送です