なんで書くんだろう~もの書きの思案
なんとなくだけど、最近、「書くこと」「創作すること」について悩むというか、想いが逡巡している人が多いような気がする。ただの気のせいかもしれないけど。
悩むといっても、どううまく書け(描け)ばいいんだろうとか、どうすればバズるとか、そういうのでなく「そもそもなんで書く(描く)のか」みたいな本質的、根源的なものだ。
春だからなのかな。いや、季節は関係ないよな。なにかを書く人、創作する人はずっと「なんで」という問いを持ちつづけてる。
普段は意識の底のほうにじっと横たわっているから目立たないだけで、あることはずっとあるのだ。
などとなにか知った風なことを書いてるけど、僕だってわからない。なんで書いてるんだろう。それが仕事だから? それはもちろんそうだけど「Exactly!」とも言い切れない。
なぜなら、それが仕事じゃなくても書くから。このnoteだってそうだ。義務でもなく、ただ書きたいからというのとも少し違う。んー。ほんと、なんで書くんだろう。
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岸田國士という劇作家がいる。その名を冠した戯曲賞は演劇界の芥川賞とも称される、まあレジェンドのひとりだ。
なぜ書くのかという問いを持て余したとき、僕はなんとなく岸田國士作品を思い出す。最初に岸田作品に触れたのは、たしか『麺麭屋文六の思案』だった。
岸田作品の舞台は、人間の業を肯定するでも否定するでもなく、時空を超えてそのまま僕の身体にいつも入り込む。味わいたい感情も味わいたくない感情もないまぜのまま。
人は普段、切れ目のない生活をしている。学生は学生生活をするし、ビジネスパーソンはビジネスパーソンの生活をしている。傍目にはとくに疑問や綻びなんてないかのように。けれど、ふとしたことでそこに「切れ目」ができたりする。
その切れ目は、ほとんどの場合、不安や混乱、不愉快、孤独といったあまり味わいたくない感情を生じさせる。思わず「ないもの」にしたくなる。
自分が当たり前のように思っている(その意識すらない)存在や関係性、馴染みの店や築き上げた何かが、じつは小さな切れ目ひとつで変容するし、そんな世界で何事もないように生きていることのおかしみや哀しみ。
岸田作品を味わうことは、「なんで」という答えのない存在を苦みも甘味も、よくわからない味わいもそのまま身体に入れることだと個人的には思っている。
「なんでそうなるんだろう」と考えても答えの出ないもの。
それを「ないもの」にせず「在る」ものとするために、岸田國士は戯曲をつくったし、僕の場合は思案しながら「書く」しかないんだと思う。