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noteタイムラインを「デザイン思考」から考えてみた

noteのPC版タイムラインの見え方(デザイン)が変わった問題。

過去のカイゼンのなかでもまあまあインパクトあるけれど、事象だけであーだこーだ言えない。本当の問題は何なのだろう。なんで、結構なユーザーが「反応」してるんだろ。そもそものところから考えてみます。

*この話、noteをアプリでしか読んでない人、スマホやタブレットのブラウザとかPCで見ないよというユーザーには何が何やらですが、なぜnoteは他と違うのか? 本質的な部分での考察なのでよければ読んでみてくださいね。


【そもそもの問い】
noteというメディアあるいはプラットフォームとユーザーの幸せな関係って?


noteが目指すのは公式に掲げられているとおり、あらゆるクリエイターの可能性を広げること。「誰もが創作をはじめ、続けられるようにする」ですよね。

ユーザーはどんなものであれ「自分の創作、あるいは生き方や生業」が育つ場として可能性を感じるから集まるわけです。つまりnoteは「創作物=作物」が生み出される畑。noterはファーマー。

どちらかだけでも作物はつくれないし供給されない。ここまでは比喩の好き嫌いはあってもほとんどの人が同意できると思います。

だとしたら問題はその先。ただ、補足するとnoteユーザー=クリエイターだとしても、キラキラした創作物を生み出す、あるいはそのための想いや思考、行動を発信する人だけがクリエイターじゃない。

日常の発信だって立派なクリエイティブだと思うんです。なぜなら何もしなければそのまま消えてしまってる日常が語られるという行為そのものが詩的でさえあるから。なんなら社会学的に意味がある。

なんていうか、吟遊詩人もいれば最先端のプロダクトをつくりだす人もいれば、美味しそうなものを並べる人、絵を描く人、歌う人、人を笑わせてくれる人、哲学対話をしてる人たち、いろんな人とその空気が集まる場所。それがnote。

日本語を母語とするメディアやプラットフォームで他に代替するものが、ちょっと思い浮かばない。だからユーザーはnoteに特別なエンゲージメントを覚えるんじゃないでしょうか。

noteのPC版タイムラインを見るとき起こってる3つのこと

で、ここから問題。そういう「あらゆるもの」が生まれるときに当てはまる構造って難しいのですが、あえて言うなら「デザイン思考」じゃないかと思うんです。

「デザイン思考とは」の話をすると戻ってこれなくなるので、ざっくり言うと、単に何をどんなふうにつくるかだけ(狭義のデザイン)でなく、それによって自分や相手がどんな体験をするか、その先に何が生まれるか、そのためには何をすればいいか(広い意味でのデザイン)が考えられている、共有されてること。

つまり何かつくって終わりじゃなく、もっとプロアクティブで常に創造と問題解決的未来が同時に在るのがデザイン思考。「デザイン思考」について、もう少しちゃんと理解したい人は↓の記事とか参考になります。

あの「メルカリ」というプロダクトというか体験の根底は「デザイン思考=ユーザーの行為への徹底した共感」で生み出されてるのがよくわかる記事です。

noteをデザイン思考が体現される場所と考えてみると、「着想=インスピレーション「発案=アイディエーション」「作品化=インプリメンテーション」の3つが揃ってることが要件です。

PC版のタイムラインが変更されると(主にみんな大好きヘッダー画像が無意味化され、アイコンでの判別もし辛くなった問題)その3つの何が影響受けるのか。

そもそも、いまはどのメディアの閲覧率もPCからのユーザー比率は低いですよね。noteの閲覧率数字は公表されてないので推測でしかないですが。だからPC版のデザインはnote全体のユーザビリティには影響少ないという見方もできるかもしれません。

ただ、noteは少し特別というか特殊で「着想発案作品化」がタイムライン上で同時並行的に行われる空間。としたら瞬間的にインスピレーションを受ける画像の扱いは無視できないわけです。記事にヘッダー画像をベースにしてるのもnoteの特性。

noteも公式で
本文と同じぐらい重要な「タイトル」と「見出し画像」
・見出し画像をつけると読まれやすくなる と推奨しています。


「たくさん見る」だけじゃないnoteユーザーのnote愛


「着想=インスピレーション「発案=アイディエーション」「作品化=インプリメンテーション」
その3つの作業をユーザーが無意識に行うために、スマホだけでなくPCユーザーも他のメディアやプラットフォームに比べて多い気がします。個人的な感覚で申し訳ないのですが。

つまりnoteのタイムラインはツイッターみたいに、ただたくさんの記事やソースを追っかけるだけじゃなく、そこでデザイン思考的つながりも発生してるということ。

つながり(いろんな意味での)はnoteも意識という推奨してますよね。

デザイン思考的つながりから新たな着想発案作品化が、生まれやすい仕組みも、noteはこれまでリリースしてるじゃないですか。せっかくのそういうカイゼンと今回のPC版タイムライン“カイゼン”はベクトルがちょっと違ってるかもしれないなと。

「多くのクリエイターにとって、生み出した作品がより多く見られるようになるメリットのほうが上回る」カイゼンという目的も、それはそれで意味がある。

ただ「デザイン思考」で考えると、note愛のあるユーザーがnoteで体験している価値(noteで生まれる高い共感性)は、単に「たくさん見る」ことだけじゃない気もする。そこへの「共感」もフィードバックされたときに、今回のカイゼンが真の意味でのカイゼンになるのかなと思うんですよね。

note愛をこめて。

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追記 2019.2.25 カイゼンのカイゼンで、またPC版タイムラインで「画像」からのつながりが戻ってきました!