僕の面倒くさい機能
文章を読んでると、ときどき面倒くさいことが起こります。
誰かに対してとかではなく自分の中で。なんだろう。書かれてること(言ってること)の内容とか表現だけじゃなく、その構造を可視化する機能が勝手に立ち上がるから。
出来上がってる対象物(文章)をそのまま見てるのに、勝手にスケルトンになって、どんなふうに組み立てられてるのか、どんな要素が使われてるのか、何を強調したくて何を控えめにしたくてとか、ここエフェクト使ってるみたいなのをレイヤー構造ふうにに映し出そうとしてくる。
いや、無意識レベルで自分がやってるんですが。
そこがちょっとでも映ってくると、ああ、このセンテンスってこういう気持ちが働いてるんだとか、コレクトネス(正解)に寄せないといけないからこうなってるとか、ここはそのままのこころの声が出てるとか、いちいち文章を追ってるのと同時にワイプの「天の声」みたいに出てくるわけです。
気持ち悪いし面倒くさいですよね。言い訳すると、これってどんな文章に対してもフラットに向き合いたいという職業病なのかも。
仕事で文章を読む、あるいは誰かの話を聞いて文字起こししたものを読むときって、どんなことが書かれててもまずは「そのまま受け取る」のが前提。
ときにはカオスすぎてついていけないとか、それは違うだろみたいなのや、ひどく遠まわし、あるいはすごく至近距離で書かれてるのとかいろんなのがあって、個人的になら「読まない」選択ができても仕事なので読まないことには話が始まらない。
なので、構造を可視化する機能がいつの間にか身についていて、どんな文章でもちゃんと、その文章それぞれの意味を、まるで形態素解析みたいに一度バラバラにしてからレイヤーごとに判断して組み立て直すみたいなことをやってるんです。構造がわかると受け取りやすいので。
そうすると仕事は進むけど、弊害もあって。
まあまあ真っすぐというか、そのまま読めばいい文章でも、いや、これはこういう背景とか目的があるから、こういうふうに書いてあるけど、それ以外の気持ちとか状況もきっとあるよなぁとか考えてしまう。
だけど、そこにはそんなことは書いてない(僕が勝手にスケルトンにしてるだけ)ので、書かれてることそのまま受け取ればいいだけなんですけどね。
それができない。真っすぐな文章であるほど職業病が邪魔してくる。
だけどたまに、そんな面倒くさい機能が発動せずに文章そのままの力とか、言葉の映像力とか、細胞見えすぎではぐらいのリリカルで読ませてもらえる人がnoteにもいて、そんな文章に出会えると素直に「いいなぁ」と思います。フィクションとかノンフィクションとかは関係なく。
この「いいなぁ」は評価系とかではなく、たぶん僕のこころの声。
一日中、朝から晩まで(ここのところ比喩ではなくなってるけど)仕事で文章に触れてて、それでも誰かの文章に癒されるんだから、なんかエコですね(意味がちがう)。