おじいさんはもう山へ芝刈りに行かない
おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に。
昔話『ももたろう』の有名な書き出しは令和の時代になっても生き続けている。なんてことのない、おじいさんとおばあさんの日常が書き出しなのに、なんでこんなに記憶に残ってるんだろう。
まあ、でもそれはよくて、問題はもうおじいさんは山へ芝刈りに行かないことだ。
これも有名な話だけど、本当は「芝刈り」じゃなく「柴刈り」。べつにおじいさんは山で優雅に芝生の手入れをしていたわけでも、山にゴルフ場を所有していて芝を刈ってたわけでもない。
「柴刈り」とは、昔の里山の暮らしに欠かせない「焚き木」になる枝を拾い集め、山の手入れをすることだ。
うちの村なんかもそうだけど、50年とか60年ほど昔は、まだほとんどの家が焚き木や薪(まき)でお湯を沸かし、竃(かまど)で炊事をしていたらしい。大先輩の話を聞くと。
なので日常的に大量の焚き木や薪が必要になる。そのためにみんなで山に入って山の手入れをしていた。ガスではないエネルギー源が供給されるインフラとしての山だったのだ。
あともっと現実的なことを言えば、山がお金を産んだ時代。木材がいまでは考えられない価格で取引されてた。それもこれも昔の話。
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山では焚き木以外にもキノコや山菜も採れるけれど、落ち葉が積もったままとかだと食べられるキノコが生えない。
下草も刈って、枝打ちして適度な日当たり(当たりすぎても日陰すぎてもよくない)になるように環境を整えてやらないと。
自然のものだから放置でいいかというと、そういうことでもなくて人間が適度に手を入れないと生えないキノコも結構あるのだ。
みたいな話って、もちろん僕もこっちに移り住んで教えてもらうまで知らなかった。というか、里山以外のところでふつうに暮らしていたら、ほぼ「関係がない話」だ。
山が手入れされていてもされてなくても自分には何の接点も関係もない。それがいい悪いじゃなく、そういうものだってのもわかる。自分もそうだったのだから。
だけど里山で暮らすようになったいまは、そういうわけにはいかない。自分事だ。
山が荒廃すれば、災害時はもちろんだけど、それ以外にもいろんな方面に影響が出る。
たとえば人が山に入らなくなる→山が荒廃する→山の木の実や小動物たちも減る→食料を求めて山の獣たちが里へ降りてくる→畑を荒らす→農家がやっていられなくなって離農する→里山も荒廃する→農産物のつくり手がさらに減る→農産物の供給や価格が不安定になる→山と関係なく暮らす人にも影響が
これはすごく単純化したひとつの例だ。
実際はもっと多方面に多層的に影響が出る。手入れされなくなった山の保水力の低下が山の崩壊や河川増水につながるとか。
だけど、そんなのって俯瞰して見ないと見えてこないし、俯瞰すれば逆にリアリティは薄くなるしで、なかなか実感は持てない。
僕だって里山暮らしをはじめて4年ほど経とうとするいまだから、ようやく実感値として感じるだけで。
じゃあ、どうすればいいのか。関係ない人を巻き込んだってそんなの知らんがなだ。本来関係ある里山に暮らす人だって、年々、山に入らなくなってる人が増えてるのに。
わからない。わからないけど、なんとなく山に呼ばれてる気がするから山に入る。正義感ぶるつもりもない。ただ僕らの世代が山に入らなくなったら、本当に里山の山(登山の対象とかではないインフラとしての山)は終わってしまう。
終わらせてはいけないものがあると、自分の中で何かが感じる。ただそれだけなんだ。