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答えのないノート(その1)

頭の中には常に、いくつかの問題がストックされている。いくつあるのか数えたことはないけど。

問題といっても解決しないとならない深刻なProblemというより、考えるべきIssueといったほうが近いかも。あるいは命題。

なので「答え」はあるようでない。なんだろう。部分的にいくつかの答えは出せるだろうけど、考えている問題をまるっと消滅させるような答えはなかなかないのだ。

もしかしたら一生考え続けることになるかも。そうなったら、それはそれでいいんだけどね。なぜって、それだけ考えられる何かに出会ったってことだから。

その中でも最近ちょくちょく頭の中に顔を出すのが「いいものは必ず伝わるのか」問題。

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ストイックな生産者とか職人さんの話を聞いてると、その人たちがよく「いいものだから手に取ってもらえさえすればわかってもらえる」「知ってさえもらえれば良さが伝わる」と口にする。

そのとおりだと僕も思う。実際、手に取ったり、味わったり、使ってみたりしたら「明らかにこれは違う」というものがにじみ出て来る。

なんだけど、じゃあその良さが万人に必ず伝わるかというと、Yes!とは言えない。「いいものは必ず伝わるのか」問題だ。

確実にいいものをつくる生産者さんや職人さんがいて、だけどその存在やものの良さが知られない、伝わらない、価値を見出されないことでいろんな問題を構造的に抱えることになる。

端的に言えば「続けられるのか」という根本的な問題。そこは、結構多くの生産者さんや職人さんも意識している。というより、いいものをつくり続けたい気持ち、想いは「売れる売れない」以上にすごく持ってるのがわかる。

いいものをちゃんと作り続けたい。それはもう矜持とかプライドとかそんな言葉では当てはまらない、なんていうか魂レベルの何かを感じる。だからこそジレンマなのだ。

じゃあ、すごく万人に寄せていって「○○映えするなんとか」とか「行列の絶えない○○」みたいな伝え方をすればいいかというと、そういうのも違う。というか、そんなのするぐらいなら何も言わないほうがいいぐらいの感じだ。

その気持ちもすごくすごくわかる。

じゃあ、どうしたらいいのか。何か言葉とか、大きな意味でのデザインでできることはあるのか。

何もしなければ、これだけ「情報=存在の証明」になっている世の中で、ものづくりを続けていくのは無理ゲーになってしまう。だからといって大事なのは、何かを伝える情報ではなく「生み出されるものそのもの」のほうなのだ。

「知ってる」のと、使ってる、触れてる、味わってる、自分の人生の一部になってるのはまったく違うのだから。

(つづく)