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反省文

文章を書いて食べてる人間として、ときどき、いやしょっちゅう、なんなら数分ごとに反省をしている。

数分って何? ふざけてんの? してないじゃんと思われそうだけど、わりと真面目だ。

反省という言葉が違うのなら自問はしている。

こんなこと書いてていいのだろうか。こんな書き方でほんとにいいのか。その他いろいろある。

文章には主題(書きたいこと、読みたいこと)があって内容(テーマを構成するする事象と心象など)があり、それが可読性のある文脈として書かれてはじめて文章が成立する。

いいですか、ここテストに出ますよ。

なのだけど、自分でも、わかっていてその公式というか構造を無視してしまう。

このnoteなんかもそうだ。僕が編集者なら、このタイトルと書き出しでOKは出さない。

泡だらけのライオンって何なんだ。ライオンだと誰も共感しない。エモ要素が足りない。『あの夏、泡だらけの彼女と』にしないと。

だけど僕の隣にいたのは、彼女ではなくライオンなのだ。それが幸せなことなのかそうでもないのかはわからないけれど。

しかもライオンを連れて銭湯に行った話なんて、ほぼ共感できないし、下手したらいきなり滑って大怪我する可能性が高い。シュールというのは手強いのだ。思ってる以上に。

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最初から最後までシュールでカルト世界なら、そういうのもありだろう。

小説家ならカート・ヴォネガット、映像の世界ならデヴィッド・リンチとか。どちらも永遠の大御所で、僕はそんな超絶ハイパーな次元のものは書かないし書けない。ディストピアものは読むのも書くのも好きだけど。

僕が漂ってるのは基本、正しいしふつうなんだけどどこかがねじれた世界。そのどこがねじれてるのかがわからない世界。そういうのが端的に好きだからとしか言いようがない。

なのでライオンを泡だらけにしても反省はしていない。note先生ごめんなさい。