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健全な批判のために必要なものメモ

きょうはあまり文章書くライフが残ってないのでメモ。この前、負傷した指はだいぶ回復した。自然治癒力すごい。

山でハリエンジュって樹木を伐採してて(それも生きる仕事のひとつ)、ハリエンジュっていうぐらいだから若い樹には鋭い棘があるのだけど、そいつが分厚い作業用革手袋を突き破って親指にぶっ刺さった。

今回のやつは恐竜ですごい背中に棘のあるやつ、アンクロサウルスぐらいの棘の大きさと強さがあったので腫れて、しばらく痛みが残った。

と書くと、ひどい怪我みたいだけどわりとよくあることなので、まあ消毒するぐらいで問題ない。

もちろん安全にはすごく気をつけてるし、仲間とやる作業なのでお互いに注意もし合う。そのときは先輩も後輩も関係ない。まじで真剣にやらないと樹を伐る作業は命に直結するから。

だからって、危ないからやらないという選択肢はなくて。里山で生きていくには、わりとあたり前にやる。

そもそもハリエンジュは生態系被害防止外来種リストに入ってる繁殖力の強い樹木なので、放っておくと厄介なのだ。蜜源でもあるので全部無くそうというのではないんだけど。

伐採をやるからには自分の能力、体力とか現場状況とかも見極めるし、仲間に対してもそれは同じ。そのうえで「やれる」判断をできるものをやる。本当の意味での自己責任。

だけど、これがSNS上の「樹を伐る」だと、たまに奇妙な批判が飛び交ったりする。その人には必要なことが他者からは不必要に見えて批判される。いちいちあげつらうことはしないけど。

そういうのはあえて見ようとは思わないけど、なんか変だなとは思う。

何かが消耗する批判はたぶん誰のためにもなってない。批判が駄目なのではない。健全な批判もあると思うんだ。

健全な批判は積み上がる。当事者、それが相反する者同士であってもお互いがその時点から「次」に行ける。あるいは、より高い次元に移ってそこで何かの「気づき」とか「学び」も得られたりする。

批判のための批判は積み上がらないどころか、お互いが積み上げてきたものを壊していく。壊し合い。そろそろ、そういうところから先に進めたらいいのだけど。

イマヌエル・カントが遺したように、個々のバイアスを離れた根源的なところから「人が知ってること」「人がやるべきこと」「人に望めること」をお互いに積み上げていくみたいに。