写真_2019-09-17_17_53_48

大事なことは「あいだ」にあるから #わたしの執筆スタンス

そんなにどっちかに決めないといけないんだろうか。

なんかいつも同じ疑問を鳩にばらまいてる気がする。鳩たちはもちろん突っつきにくるけど、そんなにおいしくもないのか、ちょっとつついてまたすぐどこかに首を振りながら行ってしまう。

ほら、とくに「いま」こんな状況だから。何が正しくて何が正しくないとか、何がセーフで何がアウトとか、いろいろ決めないとみんなどうしていいかわからなくなるし。

もちろん、命とか身体に関わるようなことは別だよ。それはまた次元が違う。でも、いまの風潮だとそうじゃないことまで巻き込んで「どっちかに決めなきゃ」の圧がかかってる気がする。

そんなときに、こうやってものを書くことが正しいのか、正しくないのか。答えなんかないし、もしあったとしても「どっちでもない」が答えなんだろうなと思う。

受け取る人によっては、そんなの無責任じゃんって思うかもしれないし、そもそも「どっちでもない」ものなんて書く意味ある? って呆れられる。

けど、僕は基本的に何か書くとき「どっちでもない」「どっちでもある」を持ってたいんだ。

そんなことを、ふと考えたのは、最近noteのTLに流れてくるだいすーけさんの「知りたい、訊きたい。 #わたしの執筆スタンス 」のお題noteをよく見かけるからかもしれない。



2020/03/01のnoteだけど、いまも毎日誰かが #わたしの執筆スタンス を書いてる気がする。うたかたの世だけど、それだけ普遍的なテーマなんだろうな。

じゃあ、自分はどんな執筆スタンスなのか。

まあこれも、いろんな種類の「書く」があるので決めてるものと決めてないものがある。執筆スタンスでも。

個人的なnoteの記事に関して言えば、やっぱりこれも絶対的なものがあるようでない。ごくたまに役に立つかもしれないことも書くし、役に立たないことも書く。公式と非公式のあいだみたいなスタンスでも書く。

たとえば、何かを好きになる。自分の好きを燃料にして走り出してしまいがちだけど、そっちだけで書くってことができない。もちろん書ける人もいるよ。すごくいいものを。僕はできないだけで。

好きだけど冷静な自分もいる。冷静じゃない自分もいる。偏愛でも恋愛でもその「あいだ」に本当な物語があると思っていて。

ほら、たとえば大好きなお肉屋さんのコロッケがあったとする。そのコロッケの味についても書きたいんだけど、全然関係ない、お店にいつもいる犬がいてその犬はお店の飼い犬かと思いきやお肉屋さんもお客さんも誰も知らない犬で、でも犬の首輪には「コロッケ」って消えそうな字で書かれてる。

その、何ともつながれない宙に浮いた「何か」が気になるし好きなんだ。

えぇっと、ちょっと何言ってるかわからない気もするけど。ほら、どっちかに振れてるほうが「わかりやすい」しエンタメとして「おもしろい」じゃない。

すごい好きなのとか、すごい辛いのとか。で、そこを軸にして物語が生まれたり、何か議論が発生したりする。それも悪くはないんだけど、それほど強い感情は生まない、でもなんか大事なものってやっぱりあるから。

賛成と反対のあいだ。そこにも何かが隠れてる。いまの騒動だって自粛と決行。どっちも間違いじゃない。でもそこにフォーカスしすぎると見えないものがあるし、どっちかしか認めないになるともはや宗教戦争だ。

本当はちょっとエネルギー落したいよね、ずっとじゃなくて。そういうのは賛成でも反対でもない「あいだ」にこぼれてる気持ちだ。結構そういうのがリアル。

個人的にはずっと、「あいだ」にこぼれてくものを拾って書いていきたい、書いて生きてたいと思ってるんだ。