わからない勇気
いつからだろう。わからない、と言えなくなったのは。
ちょっとスマホで調べれば、たいていのことはすぐにわかる。なのに「わからない」って変じゃない? そんな見えない圧のせいだろうか。わからない。
よく考えたら、世の中はわからないことだらけだ。
たとえば「男と女」だってそうだ。これだけ人類が恋やら愛やら時間を費やしてきたのに未だにわからないことのほうが多い。わかってしまったら、恋愛もののジャンルが成り立たなくなる。もちろんLGBT的な文脈も含めて。
政治とか政治を挟んだ人間の心理や行動なんて、もっとわからない。
あるフォロワーさんが感じた「最近の政治的なあれとか、自粛警察とか」のnoteを読んで「そうだよなぁ」と思った。ここ最近、とくにコロナ禍になってから政治に「反応」することがポピュラーになってきてるから。
フォロワーさんの記事には本質的に大事な想いが書かれてる。だけど、引用とか埋め込みするのがいいのかどうかわからないので今回はしない。
いや、もちろん政治にだって無反応より反応するほうがいい。ただ、それがちょっと性急なのは「よくわからない」と思う。本質的な部分からほんとにちゃんと理解できてるか、自分の頭でも考えたかどうか。そこが見えにくい。
なんだろう。すごく表層的な気がするんだ。何かを発しているんだけど、表層的だから手触りがなくてつかみにくくて。
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そういうことを書くと、そんな「わからない」とか言ってる場合じゃなくてとにかく反対、あるいは賛成しないとダメなんですとか言われるかもしれない。それもわかる。
フォロワーさんもそこに、何かよくわからないけど「引っかかり」を感じて書かれていた。理解は後回しでいいからとにかくYesと言うよねという空気を。
そこに流れてるのは、やっぱり「わかりやすさの構図」だ。
20世紀の思想家・政治学者カール・シュミットの『政治的なものの概念』を読むと有名な一節がやはり時空を超えて飛び込んで来る。
政治とは「敵」と「味方」を峻別することだと。
だけど、本当にそうなのか。もちろん一面ではカール・シュミットの言葉は真実だと思う。でもそれも政治的な一面にすぎない。
なんでもわかりやすい正義、わかりやすい悪にして単純化してしまうと、そこから本当の正しさも悪もこぼれ落ちる。過去の歴史を学んでもそんな例は星のようにある。
悪いから悪い、正しいから正しいではなく、その事象の根っこのところまで辿ろうと(たとえそれが深すぎて難しくても)して、その上で自分がどう感じてどう考えたか。そこに「本当の考えや意見」が出てくるんだろうと僕は思う。
言い換えれば、そこにこそ「教養」が生まれる。
偉そうなことを言ってるけど、僕だってちょっと油断すればやっぱり「考えないわかりやすさ」に絡み取られる。そうならないように書いてる部分もある。
というか人間も世界も複雑で「わけがわからない」ことのほうが圧倒的に多い。そんな簡単にこれが正しい、これが悪って切り分けられない。
わからないをまず認める。でもそこで終わらずにちゃんと考えて、自分だけの何かを持てればいい。
美しい花がある。花の美しさと言うようなものは無い。
小林秀雄先生の言葉が道端で佇んでいる。