取材の笑顔の向こう側(再放送)
取材用の顔というのがある。比喩的な意味でも使われるけれど、実際にその現場に居合わせるといろいろと考えさせられる。
ある著名な法律家の先生のところに伺っていたときに、急に新聞社の記者が同席することになった。
記者は時間がないらしく先に話を聞きたいという。僕は別にかまわなかった。どうせその日は泊まりだし、時間は気にしなくていい。
先生は「それならすぐに始めましょう」と、僕らとの雑談をやめて記者からの取材を受けた。
テーマは、この先の人間の生き方にも関わる非常に本質的な話。新聞記者は先生の顔もろくに見ずに、小さなリングメモを片手に用意して来たらしい質問を繰り出していく。
先生は笑顔で質問に答える。先生のことばには、隣で聴いていても「え、なにそれ、もっと詳しく教えてほしい」と思わせるワードが散りばめられているのだが記者はすべてスルーして、質問をこなしていく。
けれど先生は別段、気に留めるふうでもなく、時折自分で自分に突っ込みなども入れつつ笑顔を崩さなかった。そもそも踏んできた場数がちがう。
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こんな取材でどうやって記事を書くのだろう。不思議に思ったけれど、もうすでに書きたいことは決まってるのだろう。ただ「先生に取材をした」という既成事実が欲しいのだ。先生もそんなことはわかっている。
用意してあった先生の取材用の答えと笑顔。記者は満足して帰って行った。
記者がそそくさと出て行くと、先生は「じゃあ改めて」と話し始めた。重たい話だった。そこには取材用の笑顔はなかった。人間の顔があった。
ライターもそうだけど経験値が低いうちは取材相手の取材用の笑顔に騙される。言葉はよくないけど。もちろん、相手は騙そうとしてるわけじゃない。取材者のレベルに合わせてるだけだ。
その人が本物であればあるほど、薄っぺらい取材者に対して逆に笑顔になる場面を何度も見た。話すことがないから、せめて笑顔なのだ。
それを勘違いして「いい人でよかった」と思ってしまうとあとで残念なことになる。原稿ができてもNGが返ってくるが、その理由がわからず取材者は困惑する。取材ではあんなに笑顔だったのに、と。
笑顔すぎる取材では、決してそこで安心してはいけない。その向こう側に入っていけるかどうか。入らせてもらえるか。入るに値するだけのことをしてきたか。
靴紐の結び目を直すように、僕もいつも自分に言い聞かせている。
※昔のnote記事の加筆再放送です。