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さわるのではなく、ふれること

近辺についての短い雑記。ここのところずっと、想いを編んでいる。愛憎という名の想い。

想いにかたちはあるんだろうか。わからない。noteや紙の本に浮かび上がった「想い」は、それぞれの媒体のかたちを持って表れる。

だけど、その媒体がなければ想いにかたちはないのかというと、ちがうと思う。

媒体は文字通り媒介するもの。想いそのものではない。

どうしたら、この想いがちゃんと表わせられるのだろう。そんなことできるのかと思いながらもできればいいなという気持ちが強い。

たぶんそれは、僕がいま触れている想いがそれぞれの声や皮膚、生きものとしての温度、まなざしを持っているからだ。

想いに触れる。その感覚はすごく人間らしい営み。

こんなことになってしまって、直接触れられる機会が限られたり、透明な壁越しに遮断されたりしているから余計に思う。

そう、僕はいま21人の想いに触れてしまっている。

美学者の伊藤亜紗先生が、日本語には「接触」という意味での動詞には2つあると述べられていた。

「さわる」「ふれる」。どちらも英語ではtouchだけれど、日本語では「さわる」はどこか一方的で「ふれる」は相手を想いながらの相互的な行為だと。

いまは、一方的に「さわる」ことばがネットにも日常にも溢れている。強いことばや防御を固めたことばで相手をさわっていく。

ビジネス文脈ではそのほうが「強い」し「合理的」「効果的」だったりもする。

けど、そんなことばだけの世界は気持ちに棘が生えやすい。

だから、ちょっとちがう世界に「想い」を呼び寄せている。

かたちがいびつだったり、浮かんでたり、埋もれてたり、つかんだと思ったら逃げていったり、熱を持っていたり、冷たく硬くなってたり。

想いはさわるのが難しい。

だから、そっとふれられるように。