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夜明けのトラックは本能で走る

ただ走り続けるだけの何かになれたらいいのに、とたまに思う。

なぜなのか、うまく説明なんてできない。うまく説明できないものは、きちんと説明できるものより劣るのだろうか。

そう思わなくても、いまの世の中で説明できないものは隠されがちだ。うまく説明できないものを文字で「言葉」にするのは遠い作業のような気もするけれど、たまにあえてそうしたくなるときがあるから自分でも面倒くさい。

まるで、使われなくなった井戸に小石を放り込んで、底のほうにわずかに溜まっている水を打つ音を確かめるように。こぉーん……ぱちゃん。

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たとえば、夜明けのトラック。半分眠った道をシュンシュンと低く透明な音を響かせて走る、あのトラックだ。

なぜなのかまったく自分でもわからないけれど、夜明けのトラックの中に自分が「いる」ような気がするときがあるのだ。

その感覚所与というか初期衝動みたいなものはふたつある。ひとつは、ライターをしながらトラックにも乗ってたときだ。早朝の卸売市場で仲卸さんの荷物を積んで運ぶのだ。

ライターとして食べれなかったわけではない。ライターの仕事がいくつも入っているのに、わざわざ体を使うことがしたかった。もっと言えば早朝のトラックを自分が運転してみたかったのだ。馬鹿だと思う。

早朝3時とか4時から4トントラックに乗って市場から荷物を運び、昼には終わってそれから取材に行ったり原稿を書く。いつ寝てたんだろう。


もうひとつは映画『ヴァイブレータ』だ。映画業界的にどういう評価がされているのかとかよくわからないけれど、ロードムービーという言葉ではうまく呑み込めない「澱」が残る映画だった。

ストーリーを無理やり引っ張り上げるための展開もなにもない。じゃあ退屈かと言われるとそうではない。生まれながら消えてゆく少し濁った泡のような時間。ずっと大事にすることなんてできないのに、そうしたくなる何か。

ただトラックの後ろに流れ去っていく時間を、振動に包まれて感じていたくなる。そして、朝の国道の食堂で言葉にならない気だるさを定食と一緒にかき込んでしまいたくなる。

そこには過去も未来もなく、誰にも捕まえることのできない現在しかない。もうそれ以上どうすることもできない刹那の時間。

走ることにも、眠ることにも、愛することにも意味や目的地なんてないのかもしれない。『ヴァイブレータ』の映画のコピーのように、ある種の人のやさしさは愛情ではなく、本能だからだ。

だけど、ときには、そんなうまく説明できないものがどうしようもなく大切で、壊れやすくて、愛しいものに感じることだってあるのだ。トラックに乗らなくなった今でも。