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世界の月に囲まれたから

行動派の面倒くさがりである。なかなか面倒くさい性質だなと思う。

旅も好きだし、何か新しいことやるのは嫌いじゃない。新しい文章でどこかにたどり着きたいし、誰かの新しい文章で思ってもないところに連れて行かれるのも好きだ。

なのに、何かを計画して予定を組んでというのをやってると溶ける。エネルギーも時間もすごく使う。精神の燃費がすこぶる悪い。

行動するの決して嫌いじゃないんだけど面倒くささも常にくっ付いてくるのだ。わかりますかね?

なのでイベントとかをやるのも誘われるのも、まあまあ考える。

そもそも、いつも書いてるけど自分は「真ん中」にいるより「周辺」にいるのが好きだし、落ち着く。

たぶん、そういう人間がいちばん周りからすれば扱いづらいんだろう。どっちかに振れてるほうがわかりやすい。誘うのも誘わないのも。

まあでも、意図してそうなったわけじゃなく気付いたらそういう仕様だったから、その辺はとくに何も思ってない。どう思われるかは自分にはどうしようもないし、どう思われたいもないし。

そんな僕をたまに誘ってくれるやさしい世界がnoteにはある。すごい。

きのうも、こんなところに誘われた。


世界11カ国から「同じ月」のもとで描かれた「世界の美味しい月」作品たちが集まる場。

といっても、もともと僕はそこに入ってなかった。塩梅かもめさんが主宰で、そういう企画が行われてるのは知ってたけど、例によって周辺で勝手に読ませてもらって楽しんでたのだ。

で、たまたま何かのときに、ふと「書きたくなって」書いたのが「石ころの月」の話。タイトルは全然違う。

話といってもいつものごとく、どういうジャンルの話なのか自分でもよくわからない。どこにもたどり着かない。なにかの断片らしきもの。

ただ書きたかったというだけ。

あまり「読まれない」タイプのものである自覚はあるし、逆にこういうのがすごく読まれるのはそれはそれで変だと思う。なんていうか、あまり読まれないことでちゃんと存在できる。そういう種類の文章というのがあるのだ。

そのへんの話は、この前、嶋津亮太さんともしたような気がする。

石ころの月の話も、端的にViewは高くもないし、僕としては「でも、ちゃんと不格好なものとして存在できた」と思って、いつものようにnoteをうろうろしてたのだ。

そしたら、どこかの公園を通りがかったとき。月を観ながらなにかすごく盛り上がってる圧を感じる一団と遭遇して、声をかけられた。十数人ぐらいいただろうか。

「ちょっと、その石、どういう味なの?」

いや、関西弁だったかもしれない。

「兄ちゃん、なにその石? どんな味なん?」

ラテン系の明度も彩度も高い姉さんが僕の石ころをしげしげ眺め、「これも美味しそうやなぁ」と言う。

「いや、でもこんなの食べても美味しくないですよ」

「なに言うてんの。そんなんな、人生は美味しい美味しくないいろんなかたちで出来てるねん」

みたいなことは言われたかどうか覚えてない。でも、そう言ってもらった気がした。周りの人たちも「せやで」と笑ってる。

気がついたら、僕もその輪の中でいろんな月を見上げていた。

そう言えば、とふと思い出した。どこかの国でこういう人たちを見かけたことがある。

他人だとか知り合いだとかそういうのではなく、何か同じ人間としての熱とか想いとかを持った人たち。現地の人でもストレンジャーでも関係なく、ただ同じものを感じて分け合う瞬間を大事にできる。

そういう人の中に入るのは嫌いじゃない。周辺も真ん中もなくしてガンボのようにしてしまうふしぎな人たち。

楽しい圧ならたまに感じるのもいいな。

そんなことを想う僕を、世界の月がただ黙って見守っていた。