「狭き門」は広い
思い込みは怖い。まあ、気づかずにいるうちは思い込みとさえ考えないのだけど。
人間とヤギをやってそれなりになるけれど、いまだに自分に見えてる世界の危うさに「ハッ」とすることがある。
「狭き門」の捉え方もそうだ。
もしかしたら、そんなの常識レベルなのかもだけど「狭き門」と言われると「大勢が殺到して、そこを通過できるのは一握り」みたいに捉えてた。
本来の意味はそうではないらしい。
作家の森博嗣さんが何かで書かれてたけど「狭き門」の本来の意味は、大勢が殺到するではなく、元々あまり人が通りたがらない門。
狭いからこそ、大多数の人は「通りにくそう」とか「誰も通ってないから」と思って避ける
新約聖書マタイ伝・第7章にも、こんな有名な言葉がある。
13)狭き門より入れ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこから入ってゆく者が多い
14)命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない
ちなみにキリスト教世界では羊が従順で善きものであるのに、ヤギは異端で異教の象徴。存在がロックなんだろうか。急峻な岩場をがんがん登ってくだけに。
ヤギの頭を持っていて黒ミサを司るバフォメットなんていう異教の神は異端審問の対象にもなっている。なんてこった……。
(引用箇所のくだりは宗教的意味や意義を揶揄するものではないです)
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話が逸れた。そう、狭き門。本当は狭き門を避けないほうがいい。ただし、それは「競争を避けてはいけない」ということではない。むしろ真逆。
ほとんどの人が、みんなが通る広き門より入り、広い道を行く。そのほうが先も見渡せるし可能性がありそうだから。
だけど広き門から入れる広い道は、それこそ人がひしめいている。狭き門より広き門のほうが競争が過酷なのだ。しかも何と競争してるのかよくわからない。
文章を書く(創作とか)のもそうだ。
なぜか、多くの人が広き門、メジャーな出版社、媒体で掲載されることを目指す。これだけ個人の発信の時代になっても、あまりそこの価値観は変わってない気がする。
このnoteだって、「目指せ、書籍化・映像化!」を謳った「創作大賞」を推してるし、そこにはメジャーどころの協賛メディアが名を連ねてる。もちろん、そういうのを全否定したいわけじゃない。
そこから「人間万事塞翁が馬」で、なにかがこうなってみたいなことだってないとは言えない。
けど、結局そこに通底してる価値基準って「みんなが憧れる広き門」を通って、「みんなが好きそうな≒たくさん売れそうな」というのが外せない。
自分の価値観や信念より「市場性」のほうが優先される。ケインズの「美人投票(自分がいいと思うものより、みんなが買いそうなものを選ぶ」と同じだ。
ってことは、どうしたって数的なものとの競争は避けられない。
同質の価値基準で競争するのだから、当然、そこには「同じような」ものが集まる。中身が同質(もちろん表現やコンテンツは違うけど)なら、それ以外のガワの部分、売りになる話題性やわかりやすい「つかみ」が命運を分ける。
つまり、広き門から入ったものは本当の意味で「選ばれてる」わけじゃないってことになる。
そういうのって、なにかちょっと違う気もする。まあ、そこは人それぞれだ。
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冷静に考えると、本来の自分の門なんて、自分ひとりが通れればいいんだし、無駄に広げる必要もない。細い道だって、自分が歩ければいい。大勢と一緒でないと歩けないというのなら別だけど。
そもそも、何かを創る、文章を書く行為なんて本質的には孤独なのだ。
だけども、その孤独は絶望ではない。飛躍した言い方をするなら「気分のいい孤独」。他の誰か大勢を気にせず自分だけの道を歩けている気分の良さ。
無益な競争とも無縁。そんな道程から創造されるものには「何か=Something」があるはず。
創造する人に大切なのは、大勢の中に紛れて自分が持っている「何か」を埋もれさせないことだ。自分の中の何かを見失わなければ必ず目の前が開けてくる。
自分自身のための「狭き門」から入ったほうが、結局は自分だけの可能性も広がるんだと思う。