ものかきに必要な距離感
ひとは基本的に寂しい。
どうしたって自分をわかってもらいたい生き物だ。文章にだってつい、出てしまう。
自分をわかってもらいたい気持ちが強い文章は読みにくい。
誤解を招く表現なのはわかってる。自分をわかってもらいたい初期衝動みたいなのがあって文章を書く。そこはいい。じゃなきゃふつう文章わざわざ書こうとは思わない。
大事なのは、その次。「わかってもらいたい」のまま文章に突っ走るのではなく、「わかってもらいたい」からこそ、まだ見ぬ読み手が「受け取れる文章」にしていく。
んー。ちょっとだけ面倒くさいこと言ってるなと自分でも思うのだけど、ものを書くのは基本的に面倒くさいのだ。なんなら、構成も何も考えずに思いの丈をそのままぶちまけたほうが楽。わかれよ、お前らのスタンスで。
けど、それではなかなかひとに読んでもらえない。
なぜなら、ほとんどのひと(職業的に他者をわかろうとする回路が常に起動してるひとは別だけど)は、フラットな状態で誰かのことをわかりたいとは思ってないからだ。
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ものかきでもなくて、親しい人に「ちょっと聞いてよー!」なら、そんなの考えなくても感情のまま、聞いてよ、ねえ聞いてよ、なんで誰もわかってくれないの?ムキー!!
と書いてもいい。
たまに、そういうスタイルの文章書くひともいるけど、それはそのひとにちゃんとコアなファンがいるからだ。すっごい久しぶりにnote書いても「わー! こんどいつ書くのかなって待ってた!!」って、UPした瞬間にスキが3桁付くようなクラスのひとは別。
僕もそんなクラスではないので、ちゃんと考えて書かないといけない。
自分をわかってもらいたくて、思いの丈をぶちまける文章が読まれない。それだったらこう書いてみる。たとえば。
「世界中の声がストライキに入っていた。私の声も配達予定が立っていない」
この違いは何か?
ものかきは自分すら突き放せということだ。
冷たいみたいに思えるかもしれないけど、そういうことじゃない。どんなに想いが強くても、伝えたいことが溢れてても、第三者の誰かに「読んでほしい」なら自分に氷の魔法をかけないといけない。エルサのように。
そうすることで周りの景色が一変し、本当に使うべきことばは何かが見えてくるからだ。
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自分をちゃんと突き放す。言い換えれば自分との距離感をちゃんと取る。
自分のことを「他人」でも見てるみたいに、なんでこの人間はこんなことしてるんだろうと舞台の上から覗き込んでみてみる。
映画を撮影してる感じでもいい。自分で自分をずっとカメラで追っていく。
あえてことばにしないことだってたくさんある。その横顔を映してるだけでも、ことば以上に饒舌に何かを物語ってしまうことだってあるのに気づく。
それがちゃんと「見えて」から、文章を書き始めてみる。面倒だけど、そこから書けるようになると、ずっと自分の文章の解像度もエモーショナル度も上がる。
もちろん、それが人に届く文章を書くすべてではないよ。
みたいな話って需要あるのかないのかわからないけど。